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差別や偏見と闘い日米親善・世界平和に奔走した人生!笠井重治はかく語りき【前編】

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差別と偏見を乗り越えて・笠井重治はかく語りき

さて、留学のために渡米した重治はシアトル・ブロードウェイハイスクールに編入、ここで弁論術を学びます。

「今後、日本が欧米列強と鎬(しのぎ)を削って生き延びるには、ますます外国との交渉が重要になってくる。弁論こそ、英語を駆使できるようになる近道である」

そう確信して勉学に励んだ重治は、その甲斐あって明治三十九1906年10月、同校の雄弁競争会(ディーべート大会)で最高雄弁賞を勝ち取り、ワシントン州連合大会の代表に選ばれます。

そして臨んだ明治四十1907年5月のワシントン州連合雄弁競争会で、またも最高雄弁賞に輝きましたが、重治の活躍を喜ぶ者ばかりではありませんでした。

「何だよあいつ、黄色いジャップ(※2)のくせに……ただ猿真似が巧いだけじゃねぇか……」

アヘン戦争(天保十一1840年)以来、半植民地化された祖国からアメリカに移住する清国人(華僑)が増加、その貪欲な勤労姿勢が現地アメリカ人の商売を脅かして反感を買っていました。

それは同時に西欧各国でも問題となっており、次第にエスカレートして「黄禍論(※3)」が主張されるようになりました。

清国人に負けず勤勉な日本人も、同じ黄色人種ということでアメリカ人から差別や迫害(排日運動)を受けることがしばしばあったそうです。

重治も少なからず不快な目に遭ったでしょうが、それでもくじけずに明治四十一1908年にハイスクールを卒業、シカゴ大学政治学科に進み、大正二1913年に卒業しました。

卒業に際して、重治は「太平洋の優越感(The Mastery of the Pacific)」と題する演説を行います。

それはアメリカが直面している人種差別の課題について、人種や民族にとらわれず、互いの違いを認めた上で尊重し合うべきこと≒排日運動の停止を訴えたもので、自由と公正、そして正義を愛するアメリカ人の共鳴と感動を呼び起こしたそうです。

最高雄弁賞に加えてカーネギー平和財団と日本政府からも表彰を受けたことで、重治は日米親善・国際協調のために奔走する人生を決定づけられたのでしょう。

(※2)JAP。日本の英語表記JAPANの頭文字からとった差別用語。
(※3)こうかろん。黄色人種が世界に禍(わざわい)をもたらすとするプロパガンダ。

【中編に続く】

※参考文献:
笠井盛男編『笠井重治追悼録』昭和六十二1987年4月
笠井重治『笠井家哀悼録』昭和十1935年11月
七尾和晃『天皇を救った男 笠井重治』東洋経済新報社、平成三十2018年12月

 

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