龍馬暗殺の嫌疑で流罪、謎の死を遂げた最後の新撰組隊長「相馬主計」とは?:3ページ目
新島に流罪、東京にて謎の切腹
明治3年(1870年)10月10日、相馬は伊東甲子太郎暗殺や坂本龍馬暗殺の嫌疑をかけられ、伊豆七島の新島に流されます。
そこで大工の棟梁である植村甚兵衛に身柄を預けられ、甚兵衛の次女マツと結婚して寺子屋を開きます。島では人望も厚く、師と仰がれ穏やかに過ごしていたようです。
それもつかの間、二年後(明治5年)の10月、流刑制度廃止のため赦免となり妻とともに東京・蔵前に移り住むことに。明治政府の役人として各地方に派遣され順調に昇進していきましたが、明治八年に突如免官されます。元薩長藩士らともめたなど色々憶測はありますが、本当の理由はわかっていません。
そしてある日、相馬は妻が出かけている間に、突然割腹自殺を遂げてしまうのです。相馬は妻に他言無用と言い残しており、辞世の句や遺書など残しておらず、また妻も詳細を語っていないことから、詳しい動機は今でも不明です。
出身の笠間藩は現在の茨城県笠間市にあり、尊皇思想の強い水戸藩の影響も強かったようです。戊辰戦争では新政府側につき、会津を攻めています。
相馬も尊皇思想が強かったようで、新島時代の明治四年と赦免後の明治六年に書かれた『贈友談話』では、幕府軍に汲みしたことを後悔しているような記述もあります。ならば、新政府で後ろめたい気持ちになる必要もないはずです。
妻と共に東京に出てきたときは明らかに「生きよう」と考えていたに違いなく、死を決意するからには深い理由があるのでしょうが、本当の動機は推し量るしかありません。