男色の開祖?女犯を禁じる仏教だけど男はOK、空海は日本の仏教界に男色ブームをもたらした:2ページ目
のちの時代に「男色の開祖」と伝わる
江戸時代の儒学者・本草学者である貝原益軒(かいばらえきえん)は、「男色の戯れは弘法以来のことなり」と言っています。弘法とは「弘法大師」の名でも知られる空海のこと。つまり、のちの時代では空海が男色を広めた人物として伝わっていたことがわかります。
ただひとつことわっておきたいのは、日本における男色の始まりが空海であったというのは実際は間違いであろうということです。男色に関する記述はすでに「日本書紀」(720年ごろ成立)に見られます。「日本書紀」巻第九・神功皇后に「阿豆那比之罪」という言葉があります。
この言葉が登場するのが、小竹祝(シノノハフリ)と天野祝(アマノハフリ)の二人が同じ場所に合葬されたことで、昼も夜もなくなってしまったというエピソード。男が二人、つまり太陽が二つで、天下に二つの太陽があるというあってはならない状況をつくった罪を男色の罪と重ね合わせたような話で、これこそが日本最古の男色であったといわれています。
そういうわけで空海より以前に男色文化はあったと考えられます(そもそもこういうことは自然発生的に起こるものと考えられる)が、「日本書紀」では男色が禁忌とされていたこと、また日本仏教においても奈良時代の「四分律」という戒律では男女関係なく僧侶の「色欲」自体を戒めるものがあったというので、おおっぴらに歓迎されるべき文化ではなかったのでしょう。
そこで登場したのが空海です。空海が唐に留学していたころ、唐は空前の男色ブームだったとか。空海は密教を持ち帰るのと同時に唐ではやりの男色をも持ち帰ってきた、と言われているんです。
日本ではスレスレの行為だった男色は、中国ではブームになっていたわけです。空海がそれをそのまま持ち帰り、日本で「中国では普通のことだよ」と広めたのだとしたら、彼が男色ブームを日本にもたらしたというのもあながち嘘ではないかもしれませんね。
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