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男前すぎる!西郷隆盛と対峙した偉大な幕臣、彼の名は「山岡鉄舟」[前編]

男前すぎる!西郷隆盛と対峙した偉大な幕臣、彼の名は「山岡鉄舟」[前編]:2ページ目

結婚、栄転、謹慎…波瀾万丈に満ちた青年期

嘉永5年(1852年)に父が亡くなると鉄舟は江戸に帰り、清虎の援助で講武所(幕府の武芸訓練所)に入り、剣術や槍を学びました。また、槍の先生であった山岡静山が亡くなった後、彼の妹である英子(ふさこ)と結婚し、婿養子になります。一般的な呼称である山岡鉄舟は、この時から始まったものです。

一方、清川八郎や中條金之助などと浪士組に入り、将軍・徳川家茂のお供をして京都へ赴く栄転を受けます。が、清川が幕府に警戒されたために浪士組は江戸に召還され、彼に清川が暗殺された時に鉄舟も謹慎させられるなど、その身辺には動乱の足音が刻一刻と迫っていました。

敵は西郷…将軍家の危機に鉄舟が駆ける!

慶応4年(1868年)に幕府分の精鋭隊歩兵頭格に任じられた鉄舟のもとに、重大な密命が届きます。それは、新政府軍の西郷隆盛に使者として立つことでした。無名の武士であり、しかも清川八郎と組んで騒動まで起こした前科者の鉄舟が選ばれた理由としては、当初使者になるはずだった徳川の護衛官・高橋泥舟が持ち場を離れられないことから、鉄舟を推薦したからだと言われています。

幕府の司令官勝海舟にも会って認められた鉄舟でしたが、刀が無いほどに困窮していたと言います(剣士なのに刀が無いのも奇妙な話ですが)。そのため、借り物の大小を帯びて、

「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る!」

と叫びつつ、官軍の警備をものともせずに西郷の元へと向かっていきました。鉄舟は如何にして西郷を説き伏せたか…それは、後編へつづく。

 

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