織田信長が戦国きっての”引っ越し魔”だったのは何故?安土に城を築き、京に築かなかった理由【前編】:2ページ目
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安土城の謎
前述のとおり信長は「引っ越し」を繰り返したわけですが、その理由として「制圧した地に住み」なおかつ「そこを次の攻撃の最前線基地にする」という狙いがありました。
信長の居城の変遷は、天下を目指した信長の野望の軌跡でもあったのです。
しかし、するとなぜ信長の最後の「住居」は安土城だったのか、という疑問が湧きますね。
信長は京の本能寺で命を落としましたが、そこは宿営地に過ぎませんでした。その時点での信長の住居があくまでも安土城だったということなのです。
信長を討った光秀としては、すぐに安土城に入り、天下にする姿勢を示す予定だったようです。しかしそれを防ごうとした勢力の仕業なのか、安土城は炎上して焼け落ちてしまいました。安土城が、今でも「幻の城」であることは皆さんもご存知の通りです。
信長が活躍した時代を「安土時代」ともいいます。しかし、実際には信長がここに住んだのはわずか三年でしかありません。
安土城が完成したのは1576年ですが、信長が本格的に住むようになるのは79年以降のこと。そして82年に本能寺の変を迎えているのです。
安土は琵琶湖の湖畔の町であり、いまも小さな町です。信長がここに城を築く以前も、決して大きく栄えていたわけではありません。
なぜ彼はそんな安土に最後のものとなる居城を構えたのでしょうか。
その答えは【後編】で解説します。
参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:photoAC,Wikipedia
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