実父・徳川家康に嫌われていた?他家を養子として転々とした家康の次男・結城秀康の複雑な人生:2ページ目
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徳川一門として
やがて関ヶ原の戦いが起こると、秀康は上杉氏の抑えとして出陣します。家康は秀吉の下での活躍から、秀康の武将としての器量を認めていました。
関ヶ原の戦い後には、越前へ68万石加増と移封となりました。そして慶長9年(1604)には「松平姓」に戻すことを許されています。
新たな土地で晴れて徳川一門として認められた秀康は、これからって時に病になってしまい、慶長12年(1607)に家康より先に34歳で亡くなりました。
最後に
武将としての器量よし、体格もよし、武勇誉れ高いという武将としての3大要素を持っていた秀康に、家康は是非とも跡取りとしてなってほしかったのではないかと思います。
しかし、秀忠を跡取りと認めたのに秀康を跡取りとすると家中が混乱するから、それを避けるために跡取りにはせず、せめてものとして加増したと考えることもできます。
結城秀康は時代と身分によって、さらに活躍できたものの活躍できなかった不運な武将とも言えます。
参考:二木謙一『征夷大将軍になり損ねた男たち ートップの座を逃した人物に学ぶ教訓の日本史』
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