【光る君へ】紫式部の弟・藤原惟規、なんと実は兄だった!?系図集『尊卑分脈』の手がかりを読み解く:2ページ目
2ページ目: 1 2
藤原為信は摂津守→右馬頭の順で出世?
摂津守とは、摂津国を治める国司の長官(かみ)です。
摂津は上国(じょうこく)なので、その長官である守(かみ)は、従五位下(じゅごいのげ)の位階に相当します。
※この官職と位階の関係は、歴史を語る便宜的に官位相当制などと呼びますが、当時の人々がそう名づけた訳ではありません。念のため。
一方で右馬頭とは朝廷で馬の管理などを行う左右馬寮(さめのりょう/うめのりょう)の内、右馬寮の長官(かみ)に当たります。
こちらの官職は従五位上(じゅごいのじょう)に相当。先の従五位下よりワンランク上位です。
つまり、順当に考えれば以下の仮説が成り立つでしょう。
- 藤原惟規が誕生したのは、外祖父の藤原為信が摂津守(従五位下相当)だった時期
- 紫式部が誕生したのは、同じく藤原為信が右馬頭(従五位上相当)だった時期
- 藤原為信は摂津守→右馬頭という順に出世していった
為信が左遷・降格されていればこの限りではありません。
また必ずしも官位相当どおりに官職が与えられるという訳でもないでしょう。
とは言え、そのように出世していったと考えるのが自然ですから、外祖父の官職が低い≒早い時期に誕生した惟規が年長つまり紫式部の兄であると考えることに違和感はありません。
為信が摂津守、右馬頭を歴任していた時期が分かればいいのですが、それは今後の研究がまたれます。
終わりに
今回は『尊卑分脈』の記述から、藤原惟規が紫式部の弟ではなく兄であるという説を紹介してきました。
そもそも『尊卑分脈』自体が南北朝時代から室町時代にかけて編纂されており、信憑性の高い史料とは言いにくいものの、まったくの空想という訳でもないでしょう。
果たして藤原惟規は紫式部の兄だったのか、弟だったのかについて、今後の解明を楽しみにしています。
トップ画像:大河ドラマ「光る君へ」公式サイトより
※参考文献:
- 藤原公定 撰『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集 第5巻』国立国会図書館デジタルコレクション
- 『歴史探訪に便利な日本史小典 6訂版』日正社、2010年2月
- 角田文衞『紫式部伝: その生涯と『源氏物語』』法藏館、2007年1月
ページ: 1 2