沖田総司に並ぶ剣客!幕末に”人斬り鍬次郎”と呼ばれた新選組の知られざる人斬り「大石鍬次郎」:2ページ目
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数々の戦闘と暗殺により人斬りの異名へ
その後は同年12月に起きた天満屋事件(てんまやじけん)では斎藤一らと共に紀州藩士・三浦休太郎の護衛に当たりました。休太郎自身は顔面に傷を負ったものの、命に別状はなく無事に任務を果たします。
数多くの戦闘を経験し、伊東甲子太郎も暗殺した鍬次郎はいつの間にか「人斬り鍬次郎」の異名を持つようになりました。
そんな異名を持っていた鍬次郎でしたが、入隊間もない隊士に隊務について教えていたこともあり、面倒見のいい一面も持っていました。
暗殺の代償は死
慶応4年(1868)に起きた鳥羽伏見の戦いで敗北した新選組は江戸で帰還し、甲陽鎮撫隊と名を変え甲州へ進軍します。
鍬次郎もそれに従いますが、同年3月に起きた甲州勝沼の戦いで敗北し五兵衛新田(現在の東京都足立区綾瀬)での再屯集の後に脱走しました。
脱走後は妻子と共に江戸に潜伏していましたが、新選組時代に仲の良かった三井丑之助に騙され捕まってしまいます。
捕縛後の鍬次郎には新政府に坂本龍馬や伊東甲子太郎暗殺の嫌疑をかけられます。
坂本龍馬暗殺は否定しましたが、伊東甲子太郎暗殺を認めたので、鍬次郎は明治3年(1870)に斬首刑となり33歳で亡くなりました。
最後に
幕末の四大人斬りの他に人斬りの異名を持っていた人物が新選組にいたのは驚きでした。
人斬り集団と言われていた新選組で人斬りの異名を持っていたので、鍬次郎は相当腕が立っていたと思います。
鍬次郎自身も出世欲が強かったので、一種の宣伝としてこの異名をほしいままにしたかもしれませんね。
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