恐妻家と嫉妬妻? 徳川2代将軍・徳川秀忠と継室・江(崇源院)の関係性【後編】:2ページ目
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恐妻家と嫉妬妻の謂れ
秀忠・江夫婦に恐妻家と嫉妬妻の逸話が残る理由には以下の事実が根拠としてあげられる。
①秀忠が生前に静を正式な側室とすることはなく、息子の幸松(保科正之)を実子として迎え入れることもなかったこと
②「柳営婦女傳系」に江が嫉妬深いとの記載が残っていること
しかし、秀忠と江には実子が7人も存在することから、夫婦仲が悪かったとは考えづらく、上述の資料も信憑性に欠ける部分が多い。
秀忠が幸松の存在を秘匿したのは、当時の武家社会の秩序を守り無駄な諍いを起こさぬための措置であり、江に対する配慮と受け取ることもできる。
江に関しても、静との面識や幸松の存在の認識有無は曖昧であり(家光が幸松の存在を知ったのは江の死後)、嫉妬を裏付ける具体的な行動やそれを裏付ける根拠はない。
夫婦は現在、東京都港区の増上寺に合祀されている。
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