恐妻家と嫉妬妻? 徳川2代将軍・徳川秀忠と継室・江(崇源院)の関係性【後編】
徳川2代将軍「徳川秀忠(とくがわひでただ)」と継室「江(ごう)」には、恐妻家や嫉妬妻などの逸話が残っている。今回は【前編】に続き、将軍夫婦の関係性を考察する。
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恐妻家と嫉妬妻? 徳川2代将軍・徳川秀忠と継室・江(崇源院)の関係性【前編】
徳川2代将軍「徳川秀忠(とくがわひでただ)」は継室である「江・崇源院(ごう・すうげんいん)」以外に側室は持たず、江とのみ夫婦関係を貫いたとされる。しかし、実際の秀忠には江以外の女性との関係が…
女性関係
表向きは継室である江との関係性を維持していた秀忠であったが、江以外の女性との間にできた子の存在も知られている。
・長丸(ちょうまる)
実質的に秀忠の嫡男にあたる。母親はわかっていないが、身分の低い家女であったとされる。正確な生年月日などは不明だが、2歳前後で早世している。
・保科正之(ほしなまさゆき)
侍女であった静という妾との間にできた子供。当時の通例として、妾をつくる際には正室の許可や出自の整理など様々な準備が必要であった。しかし、静は公の準備が整う前に懐妊したことで側室として正式に認知されることはなかった。
生まれた幸松は存在を秘匿され、旧武田家臣の信濃国高遠藩主保科正光によって養育された。保科正之となって以降は3代将軍・家光に仕え、その有能ぶりから寵愛され1643年には陸奥国会津藩23万石の大名となった。
静は幸松と共に信濃に渡り、当地で没した。本人と秀忠の死後に側室扱いとなる。
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