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道長の圧力に苦しむ日々…三条天皇の皇后・藤原娍子(演:朝倉あき)とはどんな女性だったのか?【光る君へ】

道長の圧力に苦しむ日々…三条天皇の皇后・藤原娍子(演:朝倉あき)とはどんな女性だったのか?【光る君へ】:2ページ目

道長からの圧力に苦しむ

しかし娍子の栄華は永く続きません。

三条天皇の即位以前の寛弘7年(1010年)に、あの藤原道長が次女の藤原妍子(けんし/きよこ)を送り込んでいたのです。

三条天皇が即位すると女御となり、やがて中宮となりました。

皇后の娍子と中宮の妍子が対立する形となり、後ろ楯のない娍子は三条天皇の寵愛だけが頼りの危うい立場に置かれます。

その三条天皇も眼病を患うなど健康面に不安があり、道長から絶えず譲位するよう圧力をかけられ続けていました。

「……分かった。敦明(あつあきら。第一皇子)を春宮にしてくれるなら譲位しよう」

「分かりました。その条件で手を打ちましょう」

道長の圧力に屈した三条天皇は長和5年(1016年)、敦成親王(あつひら。一条天皇の第二皇子)に譲位します。

敦成親王の母親は道長の長女・藤原彰子(しょうし/あきこ)。かくして天皇陛下の祖父となった道長は権力の絶頂に至りました。

「それでも、次代は敦明が皇位を継承するから……」

と希望を捨ててはいませんでしたが、寛仁元年(1017年)に三条上皇が崩御すると、道長は敦明親王に圧力をかけたのです。

「春宮の座をご辞退なさいませ……!」

後ろ楯を持たない敦明親王は、泣く泣く春宮の座を辞退させられてしまったのでした。

失意の娍子は三条上皇の菩提を弔うために出家し、万寿2年(1025年)3月25日に54歳で崩御。亡骸は宇治御陵に葬られます。

終わりに

今回は三条天皇の皇后である藤原娍子について、その生涯をたどってきました。

若くして後ろ楯を失い、三条天皇の寵愛を恃みに生きてきた彼女は、常に道長の圧力を感じながら心細い日々を送ったことでしょう。

果たしてNHK大河ドラマ「光る君へ」では、どう描かれていくのか、これからの活躍が楽しみですね!

※参考文献:倉本一宏『三条天皇 心にもあらでうき世に長らへば』ミネルヴァ書房、2010年7月

トップ画像:大河ドラマ「光る君へ」公式サイトより

 

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