総大将は16歳の少年キリシタン。悲しき運命に翻弄された「天草四郎」の実像【後編】:2ページ目
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天草四郎は豊臣秀頼の忘れ形見!?
天草四郎には、豊臣秀頼(豊臣秀吉の子供で、大坂夏の陣で自害したと言われている)の子供ではないかというご落胤(らくいん)説があります。ご落胤説の理由としては次のようなものです。
- 天草四郎の旗印が豊臣の「瓢箪(ひょうたん)」の旗印と同じであった。
- 島原の乱に関わったものを皆殺しにしようとする徳川の尋常でない執着。
- 豊臣秀頼が生きていて薩摩へ逃れたとされる説があること。
豊臣秀頼が大坂夏の陣で密かに薩摩へ逃れた際にできた子供が天草四郎だとする説があります。島原の乱は、徳川幕府が豊臣の威光を恐れ、子孫を根絶やしにしようと躍起になった戦いだという説まであります。
しかしこの説の信憑性はかなり低いとされています。島原の乱が起こった背景は、あくまでもキリシタンへのあまりにひどい弾圧や領民への非人道的な対応によるものです。豊臣復興のための戦いではありません。
そもそも大坂夏の陣で豊臣秀頼が生きて逃れたという説自体、信憑性が低いと思われます。そうであってほしいと願う人々によって作られたものである可能性が高いのです。しかし、大坂夏の陣で秀頼の亡骸と断定できるものは何一つ見つかってはいません。秀頼が大阪で死んだと断定もできないのです。秀頼が逃れたとされる薩摩があった鹿児島の書物には、天草四郎が「豊臣秀綱」という名前であったと記されています。真実は謎に包まれたままなのです。
まとめ
今回は、謎多き16歳の少年キリシタン天草四郎について紹介しました。生まれながらに持っていたカリスマ性によって、周囲の大人たちに神格化され運命に翻弄され露と消えた天草四郎。今もなお人気を博しているのは、謎があまりに多いため伝説や噂が否定できないところかもしれません。
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