紫式部、実は母に次ぎ姉も亡くしていた…その悲しみを癒すため文通した一人の女性がいた【光る君へ】:2ページ目
文通相手との出会い
993年頃の天然痘の大流行は、日本史上最悪のものと言われています。
もともと天然痘は中国から持ち込まれたといわれていますが。これに罹患すると高熱や発疹などの症状が出て、そのまま命を落とすことも珍しくありませんでした。
日本書紀にも記録が。人類が根絶に成功した感染症「天然痘」と日本人の歴史
天然痘には貧富の差に関係なくあらゆる身分の人がかかっており、天皇や摂関家、富裕層や僧侶にも罹患した人が大勢います。
これによって多くの人が亡くなっているので、式部の姉が罹患したとしても不思議ではないでしょう。
ところで、紫式部のほぼ全生涯にわたる歌と詞書が収録されている『紫式部集』からは、姉を失った式部が、その悲しみをどのように癒したのかが読み取れます。
それによると彼女は、妹を亡くした別の女性と知り合います。そして二人は、これからお互いに亡くなった姉と妹のかわりとなっていきましょう……と誓い合っているのです。
その後、二人は誓い通り心の傷を癒し合う関係になります。式部は「姉君」とあて名書きした手紙を彼女へ送り、一方の彼女の方は、妹を意味する「中の君」と書いた手紙を式部に送るようになりました。
こうして二人は文通を続けたのです。
「雁の翼に言伝てよ」……
しかしこの二人にも別れの時が訪れました。姉君と呼ばれた女性の方は肥前(佐賀県・長崎県)へ、そして式部は越前(福井県北東部)へ、それぞれ引っ越すことになったのです。
この時の別離を嘆き、紫式部は次のような歌を詠みました。
北へ行く 雁の翼に言伝てよ 雲の上がき かき絶えずして
現代語訳すると、「北へ向かっていく雁の翼に言づてして下さい。雁が雲の上で羽ばたいていくように、私への手紙を絶やさないで」とでもなるでしょうか。
二人は、その後もしばらく手紙のやり取りを続けました。少し前ならペンフレンドという言い方になるでしょうが、今だったらきっとメールやラインでのやり取りを続けていたのでしょう。
参考資料:
歴史探求楽会・編『源氏物語と紫式部 ドラマが10倍楽しくなる本』(プレジデント社・2023年)