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大坂の陣で尽力!!戦国武将・大野治長の3人の弟たちの活躍と最後を紹介【どうする家康】

大坂の陣で尽力!!戦国武将・大野治長の3人の弟たちの活躍と最後を紹介【どうする家康】:3ページ目

徳川方として和睦に尽力した治純

最後に紹介する末弟・大野治純は先に紹介した2人とは違い、徳川家康に仕えていました。主に使番として活躍し、片桐且元との連絡役を務めました。

その際、方広寺の大仏供養の書状を受け取り、それが方広寺鐘銘事件に発展すると、淀君が遣わした治純の母・大蔵卿局と家康が面会する際に仲介する役割を担います。

慶長19年(1614)9月に且元が大坂城退去となった際には、その経緯を聞く使者として大坂城に出向きますが、兄の治長に怪しまれしまい入城できませんでした。

治純は大坂冬の陣が開戦前から和睦を勧めており、開戦後も捕虜を治長に送り返した上で再度和睦を勧めていました

和睦後に治長が治房の刺客によって負傷すると、家康の許可をもらって見舞いに行くほど治長を気にかけていることがわかります。

そして、大坂夏の陣で大坂城が落城すると、急病で亡くなったと言うように伝えて自害しました

最後に

関ヶ原の戦い後の豊臣家を支えた大野治長でしたが、弟たちはどこかしら別の目的があったように思えます。

治房は豊臣家のためというよりも戦いの場を求めていた節があり、治胤は兄たちが豊臣にいるから戦いに参加したように思えてしまいます。

唯一、治純のみが豊臣との和睦を望んでおり、そのために動きました。だからこそ、和睦派だった治長の身を案じていたのかもしれません。

 

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