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大坂の陣で尽力!!戦国武将・大野治長の3人の弟たちの活躍と最後を紹介【どうする家康】

大坂の陣で尽力!!戦国武将・大野治長の3人の弟たちの活躍と最後を紹介【どうする家康】:2ページ目

堺を焼き討ちした橙武者・治胤

治長の次弟に当たる大野治胤は、秀頼の小姓として若き頃より豊臣家に仕えていました。

しかし、慶長14年(1609)に起きた猪熊事件の首謀者・猪熊教利の逃亡を織田頼長と共に助けた罪で追放されてしまいます。

その後は道犬斎と名を変え潜伏し、大坂の陣開始を機に兄弟たちを頼って再び豊臣家に仕えました。

大坂冬の陣では3300人の兵を率いて野田・福島を守備していましたが、大雨の中での襲撃に撤退。その結果、徳川軍の野田・福島占拠と豊臣軍の水軍壊滅という大敗北を招きました(野田・福島の戦い)。

治胤はこの戦いを機に「橙武者(鏡餅の飾りで置かれることから、見せかけだけの武者の意味)」と嘲られました。

ちなみに、大坂冬の陣での博労淵の戦いで敗北した薄田兼相(すすきだ-かねすけ)も橙武者と呼ばれています。

翌年の大坂夏の陣では徳川軍の兵站となっており、武器や弾薬を影響していた堺の焼き討ちを決行。そして、天王寺・岡山の戦い後に大坂城から脱出を図るも、徳川軍に京都で捕縛されました。

捕縛された治胤は京都所司代の板倉勝重が預かっていました。

しかし、堺衆が平安時代に南都を焼き討ちした平重衡(たいらの-しげひら)が南都衆に引き渡された例を挙げた上で訴えたことで、堺衆に引き渡されます

その後、6月27日に堺衆によって治胤は火あぶりの刑に処され、命を落としました

また、『葉隠れ』では火あぶりによって炭になった治胤が、徳川軍の武士に脇差で斬りかかった後に灰になったという摩訶不思議な話も残っています。

3ページ目 徳川方として和睦に尽力した治純

 

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