全身から血を噴いて崩御…幕末期の孝明天皇の突然死で囁かれた「岩倉具視犯人説」を検証【後編】:2ページ目
「岩倉具視犯人説」の噂
いずれにせよ、天然痘の症状では【前編】で説明したような容体の急変はありえません。また最期に全身から血を噴いたという病状についても同様で、あまりにも不自然です。
このため、暗殺を疑う人は当時からいました。天皇の側近である中山忠能は、日記に「この度、御痘全く実痘には在らせられず、悪瘡発生の毒を献じ候」と、大奥の老女・浜浦による手紙を写した文章を書き残しています。ただ、当時のこれらの記録は噂程度のレベルの内容がほとんどで、現在も正確な死因ははっきりしません。
では、暗殺だとしたら犯人は誰でしょうか。ここで、よく言われてきたのが岩倉具視犯人説です。当時、公家だった岩倉が、思想的に邪魔だった孝明天皇を毒殺したのではないかというものです。
「岩倉具視犯人説」の根拠は何でしょうか。
当時の岩倉は、朝廷の中でも屈指の尊攘倒幕論者でした。彼は幕府を倒して、王政復古による新政権の樹立をすべきだと主張していたのです。
これは【前編】で説明した通り公武合体派だった孝明天皇とは真っ向から対立する主張です。岩倉の主張を通すには、「徳川幕府は絶対に必要だ」とする孝明天皇は邪魔な存在でした。
当時の情勢から言っても、孝明天皇が存在する限り武力倒幕の見込みはなかったと言ってもよく、そこで公家であり天皇に近づきやすい立場にあった岩倉が毒を盛ったのではないかということです。
実際、孝明天皇が亡くなっていなければ、徳川政権が続いていた可能性は非常に高いです。その後の岩倉が明治天皇を即位させ、討幕派が有利になる状況を作り上げたのはご承知の通りです。