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全身から血を噴いて崩御…幕末期の孝明天皇の突然死で囁かれた「岩倉具視犯人説」を検証【後編】

全身から血を噴いて崩御…幕末期の孝明天皇の突然死で囁かれた「岩倉具視犯人説」を検証【後編】

「無罪説」による反証も可能

また動機についても、彼は孝明天皇から情報漏洩を疑われており、辞官し出家するよう強要されていました。よって岩倉は、孝明天皇を暗殺するだけの政治的な動機もあり、また私怨もあったと言えそうです。

とはいえ、物的証拠は一切ありません。

また状況証拠も薄弱で、彼が現実的に当時どのように毒を盛ったのかは不明です。一応、当時の噂で「天皇には筆を舐める癖があったので、穂先に岩倉が毒を塗った筆を献上したのだろう」とは言われていたようですが。

動機についても、本当に岩倉が孝明天皇を恨んでいたという証拠はありません。

むしろ存在するのは、岩倉は孝明天皇の暗殺犯「ではない」という状況証拠の方です。

孝明天皇が亡くなる七カ月前の1866年5月に、岩倉は孝明天皇へ「全国合同策密奏書」を提出しました。そこには、幕末期の政治的混乱について天皇自身が謝罪し、これからの改革を誓ってはどうか、そうすることで天下臣民も朝廷による政治についてきてくれるだろう、というアドバイスが書かれていました。

このことから、岩倉は孝明天皇を、新政権の中心になるべき人物として考えていたと推測できます。

それに天皇が崩御した直後には、友人への手紙で「千世万代の遺憾」と、嘆きの言葉を書き綴っています。

もちろん、これらをもってして岩倉は無実だと断言することはできません。しかし、状況証拠に乏しい上に、あったかどうかも分からない動機を根拠とする「有罪説」と比べると、「無罪説」の方がよほど状況証拠がそろっていると言えるでしょう。

参考資料:
日本史の謎検証委員会『図解 幕末 通説のウソ』2022年
磯田道史『日本史を暴く』中公新書・2022年

 

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