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北条泰時の判断は?承久の乱で一番乗りを争った御家人たちのエピソード【鎌倉殿の13人】

北条泰時の判断は?承久の乱で一番乗りを争った御家人たちのエピソード【鎌倉殿の13人】

春日貞幸「最初は芝田殿が先に左側を進み、佐々木殿は右側から続いていました。それがしが更に右側より続いて横一線に並んだと思ったら、佐々木殿が鞭の長さ分だけ先に出ます。やがて中山殿(中山次郎重実)も我らと馬を並べて中州まで進みましたが、それがしは川に呑まれ、以降何も見ておりませぬ」

……とのこと。何だ、肝心な敵前上陸の瞬間は見ていないのか……しかし他の者たちに聞いて見ても、証言はほぼすべて同じ。いざ敵前になれば、みんな自分のことで一心不乱、周囲のことなど観察している余裕はなかったのでしょう。

さてどうしたものか……結局、泰時は佐々木信綱を一番乗りとし、それを支援した芝田兼義に手厚く恩賞を与えることで説得を図るのでした。

終わりに

於六波羅。勇士等勳功事。糺明其淺深。而渡河之先登事。信綱与兼義相論之。於兩國司前及對决。信綱申云。謂先登詮者入敵陣之時事。打入馬於河之時。芝田雖聊先立。乘馬中矢。着岸之尅。不見來云々。兼義云。佐々木越河事。偏依兼義引導也。景(原文辶于景)迹爲不知案内。爭進先登乎者。難决之間。尋春日刑部三郎貞幸。々々以起請述事由。其状云。
去十四日宇治河被越間事
自岸落時者。芝田先立トイヘトモ。佐々木スゝム。仍芝田。佐々木カ馬ノ弓手ノ方ニアリ。貞幸同妻手ノ方ニ 引エタリ。佐々木カ馬ハ。兩人カ馬ノ頭ヨリモ。鞭タケハカリ先ツ。中山次郎重繼又馬ヲ貞幸カ馬ニナラフ。 但是ハ中嶋ヨリアナタノ事也。貞幸水底ニ入テ後事。不存知候。以下略之。
武州一見此状之後。猶問傍人之處。所報又以符合之間。招兼義誘云。諍論不可然。只以貞幸等口状之融。欲註進關東。然者。於賞者定可爲如所存歟者。兼義云。雖不預縱万賞。至此論者。不可承伏云々。

※『吾妻鏡』承久3年(1221年)6月17日条

「橘六殿、そういう訳で此度は一番乗りを譲ってはもらえまいか……」

しかし兼義は「恩賞の問題ではない」と断りました。

「嫌です……たとえどれほどの恩賞に与ろうと、一番乗りは譲れません!」

平行線をたどった議論がどう決着したのか、『吾妻鏡』には記録がありません。恐らくは当初の決定通りになったものと思われます。

とかく名誉に関しては頑固な東国の武士たち。彼らを束ねて勝利をつかみとった泰時の苦労は大変なものだったことでしょう。

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で描かれることはないでしょうが、こうした武士たちの思いが背景に感じられると、ドラマ鑑賞もより深く楽しめるかと思います。

※参考文献:

  • 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡8 承久の乱』吉川弘文館、2010年4月
 

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