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どう考えても血まみれ!幕末の「江戸城無血開城」は本当はおびただしい犠牲の上に成立した!?

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その後も多くの血が流れた

実は、勝海舟は直前まで幕府の要職を解かれて左遷されていた身だったのですが、鳥羽・伏見の戦いで敗れた徳川慶喜に頼られて「海軍奉行並」「陸軍総裁」にまで昇進、2月には「陸軍取扱」という職に就いています。

つまり勝海舟と西郷隆盛の交渉というのは、軍のトップ会談だったわけです。そして実は、勝が1月に海軍奉行並に就く直前から、既に一人の幕臣が犠牲になっていました。

その名は小栗忠順。彼は新政府軍との徹底抗戦を唱えた人で、勘定奉行・陸軍奉行並の任にも就いていました。しかし、もはや戦う気のなかった徳川慶喜に嫌われたのか、彼は罷免されました。

そして江戸城総攻撃が回避された後の4月4日、群馬県は東善寺にいるところを捕縛され、罪状も知らされないまま2日後に斬首されています(彼の処刑は実質「暗殺」のようなものだったとも言われています)。

また、江戸城が無血開城された直後、忠実な幕臣だった川路聖謨は、徳川幕府の敗北を嘆いて自害しています。

戊辰戦争も続きました。上野戦争では、もともと慶喜の護衛隊である彰義隊が敗れて上野は焼け野原に。東北でも、奥羽越列藩同盟の戦いや会津戦争が起きています。

さらには北越戦争箱館戦争も忘れてはいけません。江戸城無血開城と言っても、単に江戸城だけは戦争をせずに明け渡されたというだけで、実際にはその前後に多くの死者が出ていたのです

この無血開城によって、一部の無駄な犠牲を出さずに済んだのは間違いありません。

しかし勝と西郷の話し合いは決して停戦や休戦の協定のようなものではなく、この時日本は大きな内戦のさ中にありました。局地的にたまたま「無血」で済んだ戦闘が、文字通り徳川方の本丸だったというだけなのです。

無血開城という言葉の響きを、私たちは理想化・美化したイメージで捉えてしまっているのかも知れません。

参考資料

 

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