大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で八嶋智人が演じる武田信義と言えば甲斐源氏…そのルーツをたどってみました:2ページ目
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かくして久安5年(1149年)に義清が没した後も清光は甲斐国で勢力基盤を築き、保元の乱・平次の乱と言った中央の抗争から距離を置いていましたが、仁安3年(1168年)に清光が没し、信義の代になって治承4年(1180年)、頼朝公の挙兵に呼応。
三代にわたり貯えた実力をもって平家討伐に多大な貢献を果たしたものの、頼朝公や木曾義仲(きそ よしなか)と並び立つ源氏の棟梁と見なされたほどの強大さゆえ、頼朝公から危険視されてしまいます。
養和元年(1181年)には後白河法皇(ごしらかわほうおう)が信義に頼朝討伐の密命を下したとの風聞が流れたため「子々孫々、源家(頼朝公)に対して弓を引くことあるまじ」と起請文を書かされる屈辱を味わいました。
それだけでなく元暦元年(1184年)には嫡男の一条忠頼(いちじょう ただより)が鎌倉で暗殺されるなどして勢力を削がれ、頼朝公の盟友(源氏の棟梁)から鎌倉殿の御家人扱いに転落していきます。
それでも武田家は甲斐国の実力者として存続し、頼朝公が没して源氏嫡流(自称)が絶えた後もその命脈を保ったのでした。
まとめ
一、武田のルーツは常陸国那珂郡武田郷(現:茨城県ひたちなか市武田)
一、武田一族が甲斐国へやって来たのは平安時代末期の天承元年(1131年)
他にも武田一族は東北や北海道、西国へも勢力を伸ばしており、それぞれ各地で活躍するのですが、その発祥が茨城県であったとは意外でしたね。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では武田信義に加え、ダーティな権力抗争の盛り上げ役として、一条忠頼も登場するかも知れません(現時点では不明)。
かつて頼朝公から危険視されるに至った武田一族の実力を感じさせる八嶋智人の好演を、今から楽しみにしています。
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※参考文献:
- 五味文彦ら編『現代語訳吾妻鏡1 頼朝の挙兵』吉川弘文館、2007年11月
- 柴辻俊六『甲斐 武田一族』新人物往来社、2005年10月
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