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今は「島原の乱」とは呼ばれていない!日本史上最大の内乱の知られざる実態とは!?

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籠城戦の果てに…

3万7千人の一揆勢は原城で3カ月間、籠城します。この時12万余りいた幕府軍はオランダから助けを得ており、それを知った四郎は、内戦に外国勢力を利用するのは卑劣だと非難する矢文を送っています。これがその一節です。

かくの如き仕合せ、いささかもつて邪路にあらず候。然らば海上に唐舟見え来り候。誠にもつて小事の義に御座候処、漢土まで相催さる事、城中の下々ゆゑに、日本の外聞然るべからず候、自国他国の取沙汰是非に及ばず候

幕府軍は降伏の勧告をしていたのですが、四郎は「この蜂起は幕府に楯突くものではなく信仰のためだ」と述べているんですね。いや、松倉家の圧政に対する抗議じゃなかったのかよと突っ込みたくなりますが、なぜこのような回答をしたのか、やり取りの詳細は不明です。

兵糧攻めを受けて原城は落城しました。幕府軍にも約8千人~1万数千人の死傷者が出ています。

その後、幕府がますますキリスト教徒を警戒するようになり、鎖国政策を本格的に採用することになったのは皆さんご存じの通りです。

また、この反乱が「農民の一揆」ではなくキリスト教徒による「乱」だと記録されたのは、キリスト教徒をテロリスト集団だと印象付ける意味もありました。

圧政によって一揆を誘発させたとして、松倉勝家は斬首されました。大名にも関わらず切腹ではなく斬首というのは異例で、幕府側もこの圧制者の所業は見過ごせなかったとみえます。

もちろん、一揆を起こした側もほぼ全員が命懸けで、多くが厳しく処罰されています。しかし、反乱のそもそもの原因を作った松倉もきっちり処罰されているのを見ると、なんだか嬉しいですね。

島原藩4万石はその後、土地の半分以上が無人となりましたが、強制移民令によって島原・天草領に徳島県などから人が移り住み、土地の復興が進んだとされています。

参考資料

 

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