今は「島原の乱」とは呼ばれていない!日本史上最大の内乱の知られざる実態とは!?:2ページ目
農民、キリシタン、浪人、そして天草四郎
キリスト教徒も農民も、圧制者への反抗という目的が一致したんですね。彼らは、武士身分から百姓身分に転じていた旧有馬氏の家臣の下で組織化されます。中には、幕府による大名家の取り潰しで職を失った浪人も含まれていました。武装集団はどんどん数を増していきます。
さて、この反乱で最も有名なのが天草四郎でしょう。
ほとんど伝説的な少年です。言い伝えではものすごい美貌だったとか、盲目の少女を治したとか、水の上を歩けたとか、ハトが手の平に下りると卵を産んだとか、実は豊臣秀頼の子息だったとか。
西欧では、キリストやそれに連なる聖者たちもことごとく創作話によって伝説化していますが、天草四郎もそのような存在でした。
彼が生まれたのは1621年、現在の熊本県天草市です。父親はキリシタン大名だった小西行長の家臣・益田好次でした。天草四郎は、元服後は益田時貞と名乗っています。
益田家は江戸時代は農民の身分に転じていましたが、もともとは武士だったので経済的には裕福で、四郎も高い教養を身につけていました(もっとも四郎の幼い頃の話はほとんど不明なのですが)。
四郎が生まれた頃、天草・島原の人々は飢饉・重税・弾圧に苦しめられていました。そんな中、宣教師の一人が「25年後の天変地異にあわせて16歳の神の子が現れる」と予言します。
農民たちは、四郎こそがこの「神の子」だと信じたとされています。そんな予言を皆が本当に信じたかどうかは分かりませんが、そんな背景もあって、四郎は16歳にして一揆の総大将・シンボルに祭り上げられました。