武士の身分を剥奪、首級を晒され…明治時代、日本の法律整備を急いだ江藤新平の最期:2ページ目
踏みにじられた新平の理想
そんな新平は裁判制度や警察制度の整備に尽力したのですが、不正を嫌うあまり藩閥政治の中で孤立してしまいます。
当時、明治政府の中で力を持っていた長州藩閥の山県有朋(やまがた ありとも)や井上馨(いのうえ かおる)らが関与していた汚職事件を厳しく追及。もみ消しを図る大久保利通(おおくぼ としみち)と対立した結果、明治6年(1873年)に閣僚を辞任しました(明治6年の政変)。
故郷の佐賀に帰った新平はしばらく静養していたものの、明治維新に大きな功績を上げながら、新政府に報いられなかった不平士族に担ぎ上げられ、彼らの暴発を抑えきれず、とうとう兵を挙げざるを得ませんでした(佐賀の乱。明治7・1874年)。
ますらおの 涙を袖に しぼりつつ 迷う心は ただ君がため
【意訳】大の男が情なく未練の涙に袖をぬらしているのは、ただ天皇陛下=日本国の行く末を思うゆえなのです。
これは新平が詠んだ辞世ですが、天下の政権をほしいままにする大久保は、自分たちに真っ向から逆らった新平が許せません。
そこで彼の整備した法律を踏みにじるかのように、まともな裁判もせず処刑を決定。除族(じょぞく)の上で梟首(きょうしゅ)とします。享年40歳。
除族とは武士の身分を剥奪する(士族から除く)こと、梟首とは斬首した首級を晒すことで、大久保は悪趣味にも、千人塚に晒された新平の生首写真を大量にばらまかせました。
「江藤醜態笑止なり」……大久保は日記にそう書いたそうで、この振る舞いが全国の心ある者たちをして憤激せしめ、不平士族による決起挙兵が相次ぐことになります。
新平の目指した公正な社会が実現するまでには、まだまだ遠い道のりが続いているのでした。
※参考文献:
斎藤孝『幕末維新 志士たちの名言』に刑文芸文庫、2014年2月
毛利敏彦『江藤新平 急進的改革者の悲劇』中公新書、1987年5月