まさに蘭学の化け物!江戸時代、前野良沢が『解体新書』に名前を載せなかった理由とは:2ページ目
『解体新書』に我が名を載せるな!譲れなかった良沢のこだわり
「……これを世に出すのは、まだ早い!」
せっかく出来上がった『解体新書』の出版を、良沢は大反対したのです。
「まだ翻訳が不十分だ。もしその部分が原因で医療ミスが起きたら、お主らはどう責任をとるんだ!」
「確かにそういう部分もある。しかし、世に出せば確実に人々を救える部分も少なからずあるのだ!」
「左様。むしろ、不十分な箇所も含めて世に出すことで、より優れた医学者が改良してくれる可能性だってあるじゃないか!」
「あるいは、自信のないところは保留として世に出さず、自信のある部分だけ抜き出したらどうか?」
「いや、このように不十分なものを世に出してしまっては、末代までの恥となる。どうしても出すと言うなら、拙者の名は載せないでいただきたい!」
……そんなバカな、今まで一緒に苦楽を共にしてきた仲間じゃないか……玄白たちの説得も虚しく、安永3年(1774年)に出版された『解体新書』に前野良沢の名が連なることはありませんでした。
「これで、良かったんじゃろうか……」
「当人の希望とあれば、仕方あるまいのぉ……」
玄白たちにも周囲からのプレッシャーなど出版を延ばせない事情があり、誰もが譲れないギリギリでの決断だったことでしょう。
エピローグ「蘭学の化け物」
もちろん、良沢にしても出版をいくらでも延ばせる余裕があった訳ではなく、中津藩中では周囲からさんざんプレッシャーをかけられていました。
「何だ、アイツは藩医のくせにロクすっぽ患者の診察もせず、よくわからん南蛮の書物など読みふけって……」
「しかも、せっかく翻訳した『解体新書』に名前も載せてもらえなかったと言うから、よほどの無能者と言わざるを得まい……」
自分の美学ゆえに名誉を手放してしまった決断を後悔はすまい……周囲の嘲笑に耐えながら辛い日々を送っていた良沢でしたが、中津藩主の奥平昌鹿(おくだいら まさしか)だけは彼を高く評価していました。
「患者を診るのも医師の仕事だが、天下公益のために医学を究めることも立派な仕事……そなたの蘭学に対する情熱は、まさに化け物とも評すべきじゃ」
主君の理解に感銘を受けた良沢は、蘭学の化け物、略して「蘭化(らんけ)」と号するようになりますが、まさに知己を得た思いがしたことでしょう。
それからも蘭学に対する情熱は衰えることなく、享和3年(1803年)に81歳の生涯に幕を下ろした良沢の志は、弟子の司馬江漢(しば こうかん)や大槻玄沢(おおつき げんたく)らに受け継がれていったのでした。
大衆に迎合することなく、真に価値のあるものをこそ、後世に伝えるべし……そんな大叔父の教えをまっとうした良沢の生き方は、200年以上の歳月を越えて私たちの胸に響きます。
※参考文献:
鳥居裕美子『前野良沢 生涯一日のごとく』思文閣出版、2015年4月
緒方富雄 校注『蘭学事始』岩波文庫、1982年3月