なぜ織田信長は強大な軍団を築けたのか?その理由は卓越した先見性と情報収集力にあった【後編】:2ページ目
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桶狭間の戦いも情報戦で制した
信長は、今川義元を討ち取った桶狭間の戦いでも、情報力をフルに活用しました。
生駒市の親族である川並衆の蜂須賀小六や前野将右衛門などに情報収集活動を行わせ、今川軍の動向と刻々と変化する戦況を得ていました。
今川義元本陣への奇襲が成功したのは、こうした情報を正しく分析した信長の能力があったからでした。
この戦いの勲功第一とされたのは、義元を討ち取った武士ではなく、義元本陣の位置を信長に知らせた梁田政綱とされたことに、信長がいかに情報力を重視していたかが理解できるでしょう。
生涯最大の危機も情報力で乗り切った
信長最大のピンチといわれるのが、朝倉義景を攻めた際、浅井長政の裏切りに会い、命からがら撤退した金ケ崎撤退戦です。
この時、浅井氏の裏切りを信長に知らせたのは、近江・若狭方面の諜報活動を行っていた松永久秀であると『朝倉記』に記されています。
また、『朝倉家記』には、浅井長政に嫁いでいた信長の妹・お市の方が、信長に袋の両端を縛った「小豆の袋」を陣中見舞いに送り、朝倉・浅井軍による挟み撃ちの危機を伝えたという記載があります。
特にお市の方の逸話は、広く知られドラマや映画に頻繁に登場します。しかし、両方とも史実としては確かな確証はありません。
しかしながら、あと一息で朝倉氏を滅ぼせるという勝ちに乗じていた戦況でありながら、突然訪れた最大の危機に、信長を救ったのは、やはり信長が構築した情報網があったからに間違いないでしょう。
いかがでしょうか。有力な戦国大名が多い中、織田信長が天下布武に邁進できる強い軍団を作り上げることができた理由が、先見性と情報収集力にあったことをご理解いただけましたでしょうか。
2回にわたり、ご愛読をいただき、ありがとうございました。
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