異例の大出世!戦国時代に商人から一大名にまで上り詰めた小西行長の活躍から斬首まで:2ページ目
講和内容により秀吉の怒りを買う
文禄元年(1592)の文禄の役の際では、先鋒として釜山に上陸しました。行長は朝鮮に近いことと水軍の指揮権を有していたことから先鋒になったと考えられます。
上陸後は漢城、平壌と破竹の勢いで都市を制圧していきました。
他の隊も朝鮮の都市を制圧していくのですが、明軍の到来で戦場は混戦に。次第に兵糧不足に悩まされるようになり、この状況を見て行長は石田三成と共に明側と講和交渉に臨みました。
講和交渉では、行長はあろうことか秀吉は明に降伏する名目で講和を結んでしまいます。この内容を知った秀吉はもちろん大激怒。命を失うところでしたが、前田利家のおかげで事なきを得ました。
その後の慶長の役では講和交渉での失態をカバーできるくらいの武功を要求されたため、怒涛の勢いで朝鮮・明軍と戦いますが、慶長3年(1598)の秀吉死去と共に帰国を命じられました。
東軍ではなく西軍に与した行長
帰国後は徳川家康に接近しますが、慶長5年(1600)に起きた関ヶ原の戦いでは家康側である東軍ではなく西軍として家康に対峙しました。
行長が西軍に与したのは、武士としてのきっかけを与えてくれた宇喜多家への義理と文禄・慶長の役で強い関係性になった三成との義に応えたのではないかと考えられています。
しかし、行長の思い空しく小早川秀秋たちの裏切りによって敗北し、捕らえられます。
そして、三成たちと共に京都の六条河原で斬首されました。行長はキリシタンだったので、ポルトガル王妃から授かったキリストとマリアのイコン(聖書の出来事を描いた絵)を掲げて、3回頭に載せた上で処刑されました。
最後に
商人から一転して武士として歩んだ行長。中国地方の三大謀将の1人、宇喜多直家と関白となった豊臣秀吉から才能を目に止められていたので、行長が商人時代から優秀だったことがわかります。
また、生まれが商人ということで損得勘定を大切にする背景から文禄・慶長の役では交渉役として動いたのかもしれません。もしかしたら、関ヶ原の戦いも兵力差から勝てると見込んで西軍についたのかもと思えてしまいますね。
参考