小領主から徳川家兵法指南役へ。剣術「新陰流」を操った柳生一族の歴史【その2】:2ページ目
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1621年には秀忠に続き、3代将軍家光の兵法指南役を努め新陰流を伝授した。宗矩は家光からの信任が厚かったとされ、1629年には幕府初の惣目付に就任、1636年には知行1万石に達し、大名として「大和国柳生藩」を立藩するまでに至った。1646年、江戸で死去。享年76。
宗矩は柳生家発展の立役者であり、宗矩の存命下において柳生家は最盛期を迎えた。一介の剣士から大名にまで上り詰めたのは、日本の歴史上宗矩ただ一人とされている。
柳生藩の存続
宗矩の死後、家督は息子である長男の「柳生三厳(十兵衛)」、三男の「柳生宗冬」、四男の「列堂義仙(れつどうぎせん)」の3兄弟に分知された。
中でも長男の三厳(十兵衛)は著名な人物であり、現在も映画や小説などで題材として登場している。眼帯をした隻眼の侍というイメージが定着しているが、隻眼を証明する歴史的根拠は見つかっていない。
柳生家の藩主は代々徳川将軍家の剣術指南役を務めた。その後も大名家として存続し、初代の宗矩から数えて13代目の「利益」の代に明治維新を迎えるまで柳生藩を拝領した。
新陰流は明治以降も1921年まで宮内省において伝習がなされた。太平洋戦争を経て、現在はいくつかの系統が存在し「新陰流」を伝えている。
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