江戸の家康、仙台の政宗の鬼門封じ:江戸時代の地理風水を駆使した都市設計【1】:2ページ目
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江戸城の場合
徳川家康は、江戸城の鬼門に寛永寺、神田明神、浅草寺を置き、裏鬼門には増上寺、日枝神社を置いて、これでもかと霊的な守りを固めました。
また江戸の鬼門として水戸を、さらにその先には仙台があります。(仙台が江戸の鬼門であるかもしれないという推理は©星の街仙台によるオリジナルの創作です)
家康の側近南光坊天海は、陰陽道、風水学の知識を持っており、江戸の町の都市計画を初期から完成まで関わり、城の本丸の場所や鬼門も家康に助言したとされます。
仙台城の場合
伊達政宗は仙台城の公式鬼門として、定禅寺を筆頭とする寺社群を幕府に報告していました。が、その先には仙台東照宮があります。この場所は元々天神社があったのですが、政宗が亡くなって二代藩主忠宗の時に、天神社を少し東側にずらして、徳川家康公を祀りました。
政宗にとっての陰陽道、風水学の知識は、幼少時からの教育係だった虎哉和尚、そして伊達の三傑のひとり茂庭綱元と思われます。
城下の六芒星は左に約15度の傾きを持っていますが、この傾きが無ければ、正確な鬼門方位を取ることができなかったことがわかります。
政宗以前に、国分氏が支配していた時代では、仙台城のある青葉山には国分氏の城があり、よってその鬼門に天神社があったということになります。
不思議なことに、仙台城の裏鬼門は、史料もなくいまのところだれにもわかりません。
参照:星の街仙台
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