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実は心眼の使い手だった!?新選組の独眼竜「平山五郎」の生涯【一】

実は心眼の使い手だった!?新選組の独眼竜「平山五郎」の生涯【一】:2ページ目

舞い込んだ「浪士組」募集の報せ

「片目が見えないのは不便だが、独眼竜(伊達)政宗みたいでカッコいいな!」

……と五郎が思ったかどうかはともかく、剣術の腕前には自信を持っていたようで、31歳となった安永六1859年には、相模国鎌倉郡平戸村(現:神奈川県横浜市)にある同村の代官・萩原連之助行篤(はぎわら れんのすけゆきあつ)が開いていた直心陰流(じきしんかげりゅう)の剣術道場を訪ねました。

いわゆる「道場破り」ですが、この道場は前年に天然理心流(てんねんりしんりゅう)剣術の近藤勇が訪ねた時、その時は幕府の第13代将軍・徳川家定(とくがわ いえさだ)が亡くなった喪(も)に服するとして試合を辞退。

それから一年が経ったものの、主君の喪が明けていない(※)として、五郎もまた試合を実現できなかったものと考えられます。

(※朱子学によると、服喪期間は父母で三年とありますから、きっと主君はそれ以上だったでしょう)

このまま泰平の世が続けば、五郎もきっと「隻眼の剣術家」として生涯をまっとうしたのでしょうが、時は風雲急を告げる文久三1863年2月、五郎の元へ浪士組(ろうしぐみ)募集の話が舞い込んで来たのでした。

【続く】

※参考文献:
永倉新八『新撰組顛末記』新人物往来社、2009年
箱根紀千也『新選組 水府派の史実捜査―芹澤鴨・新見錦・平間重助』ブイツーソリューション、2016年
流泉小史『新選組剣豪秘話』新人物往来社、1973年

 

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