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むっちゃカッコいい苗字!明智光秀の家臣・四王天政孝&政実兄弟の武勇伝【上】

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明智光秀の丹波攻めに従軍

四王天政考&政実兄弟(※父子という説もあり)が明智光秀に仕えたのは天正三1575年、光秀が織田信長(おだ のぶなが)の命によって丹波国(現:京都府中部および兵庫県北東部)に攻め込んだ時のことでした。

当時、丹波国は波多野右衛門大夫秀治(はたの うゑもんのたいふひではる)が支配しており、氷上郡柏原庄平井村(現:兵庫県丹波市)を治めていた四王天兄弟は、反・波多野派の小領主として光秀に期待を託したのでしょう。

(※祖先は坂東で勢力を伸ばしていたのに、紆余曲折の末こっちに土着したようです)

「明智様、それがし四王天又兵衛(またべゑ)と申しまする。右衛門大夫(=秀治)を討ち平らげる先鋒として、膝下にお加え下され!」

「おぉ、四天王が二人も加わるとは頼もしや。戦果を期待しておるぞ!」

「「ははぁっ(四王天なんだけどなぁ……)!」」

……しかし、波多野方には秀治の盟友(※)で「丹波の赤鬼」「赤鬼悪右衛門(あかおに あくゑもん)」などの二つ名で恐れられた赤井直正(あかい なおまさ)が加勢しており、散々に打ち破られてしまいます。

(※よく「信長の野望」などのゲームでは波多野秀治の家臣みたいに設定されていますが、当時の支配勢力は直正の方が大きく、盟友のような関係と解釈しました)

「これは敵わん。退け、退けっ!」

苦戦を強いられた明智軍は信長の命によって丹波攻めを一度保留、越前の一向一揆(天正三1575年8月)の鎮圧や石山本願寺との戦い(~天正八1580年8月)に転進しながら時機を待っていた天正六1578年、ついに「丹波の赤鬼」直正が先の戦傷によって亡くなったのでした。

【続く】

※参考文献:
松井拳堂『丹波人物志』臨川書店、1987年
高柳光寿『人物叢書 明智光秀』吉川弘文館、1986年
二木謙一 編『明智光秀のすべて』新人物往来社、1994年

 

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