実は頼朝以上の大器だった?石橋山の合戦で頼朝を見逃した大庭景親の壮大な戦略スケール【下】:2ページ目
あえて頼朝公を泳がせた?景親の戦略スケール
景親が頼朝公を見逃す理由はただ一つ。
「今、ここで頼朝に死なれては都合が悪い」
それは解るのですが、景親にとってどう都合が悪いのでしょうか。さまざまな可能性を考える手がかりとなるのは「生き延びた頼朝は、どのような行動をとるか」という着眼点。
石橋山の窮地から脱出した頼朝公は、どうにかして安全地帯(自分を支援してくれる武士団の勢力圏)へ逃げ込もうとするでしょう。
現地ですんなり受け入れて貰えればいいのですが、天下の平家政権を敵に回した頼朝公の挙兵は「ネズミが富士山に挑むような暴挙」でもあり、そう簡単に支持は得られない筈。
それでも「武門の棟梁たる源氏の嫡流ブランド(復活願望)」や「驕り高ぶる平家政権への反感」から頼朝公に味方する物好き?は一定数存在するため、彼らは頼朝公を支持するべく旗色を鮮明にするでしょう。
頼朝公があちこち逃げ回り、あるいは広く支援を呼びかけることによって、坂東ひいては東国じゅうの武士団が「平家派か、頼朝派か」の決断を迫られることになります。
こうして「謀叛の可能性(反平家勢力)」を片っ端から炙り出した上で、ことごとく討ち平らげよう……というのが景親の戦略だったのではないでしょうか。
また、景親は平清盛(たいらの きよもり)から「東国の後見(こうけん。実質的な支配者)」を任されており、その自負や矜持、それを裏づける実力も持っていました。
弱小だった頼朝公をただその場で殺すのは簡単だけど、あえて泳がせることでより大きな戦略の誘引剤に利用してやろう……石橋山で頼朝公を見逃した景親の判断には、そんなスケールが感じられます。
エピローグ
……しかし、景親の目論見は「ある男」の存在によって根底から覆されてしまいます。
上総国(現:千葉県中部)で二万騎と称される大勢力を誇っていた上総介広常(かずさのすけ ひろつね)が、頼朝公の将器に「男惚れ」して臣従を誓いました。それがキッカケで坂東じゅうの武士団が「源氏有利」と判断、こぞって頼朝公に味方してしまったのです。
それでも「東国の後見」の務めを果たすべく謀叛の鎮圧に死力を尽くした景親ですが、もはや坂東の趨勢は決して衆寡敵せず、また京の都から来る予定だった平家の援軍も遅れたため、治承四1180年10月23日、ついに頼朝公の軍門に下りました。
奇しくも石橋山の合戦(同年8月23日)からちょうど2か月。こんな短期間で、こうまで逆転してしまおうとは、景親はもちろん頼朝公ですら思わなかったかも知れません。
そして3日後の10月26日、固瀬河(かたせがわ。現:神奈川県藤沢市)のほとりで兄・懐島太郎景義(ふところじまの たろうかげよし。合戦前から頼朝公に臣従していた)に斬られ、景親の首級は梟首(きょうしゅ。さらし首)にされたのでした。
頼朝公は「自分の弟を斬らせる」ことで景義の忠誠を試すと共に、景親には「自分の兄に斬られる」無念さを味わわせることで、石橋山の屈辱を晴らそうとしたのかも知れませんが、たとえ戦略であっても自分を見逃した景親に比べると、ちょっと器が小さいように感じられなくもありません。
歴史にif(もしも)はありませんが、もしも景親の目論み通りに東国平定が成功していたら、武士たちの世はどのように変化していたのか……興味は尽きないところです。
【完】
※参考文献:
五味文彦 編『現代語訳吾妻鏡〈1〉頼朝の挙兵』吉川弘文館、2007年10月
田中幸江 訳『完訳 源平盛衰記 四』勉誠出版、2005年9月
細川重男『頼朝の武士団 将軍・御家人たちと本拠地・鎌倉』2012年8月