梶原景時の仇討ち!鎌倉時代「建仁の乱」で活躍した女武者「坂額御前」の武勇伝(下):2ページ目
決戦・鳥坂城!坂額御前の武勇
さて、いよいよ盛綱の大軍勢が鳥坂城めがけ、攻め寄せて来ました。
城方(しろかた。守備軍)は雨のように矢や石を飛ばして決死の抵抗を試み、盛綱の嫡男である佐々木小三郎兵衛尉盛季(ささき こさぶろうひょうえのじょうもりすえ)はじめ多くの将兵を負傷させるなど、大いに苦戦せしめたそうです。
そんな中、坂額御前は矢倉(やぐら。櫓)に上って矢を放ち、その腕前は
【原文】「百發百中の藝ほとほと父兄に越ゆるなり……(中略)……これ(矢)に中(あた)る者死せずといふことなし」
※『吾妻鏡』建仁元1201年5月14日条
という父(城資国)や兄ら(城資永、長茂)も顔負けの凄まじさで、盛綱の郎党たちも多く討ち取られたそうです。
しかし、信州の御家人である藤原四郎清親(ふじわらの しろうきよちか)は鳥坂城の裏山に回り込み、高いところから矢倉の上に奮闘している坂額御前に狙いを定め、彼女の両脚を射抜きました。
「あなや!」
倒れ込んだ坂額御前が清親の郎党らに生け捕られてしまうと、それを知った城方は総崩れとなり、小太郎資盛も慌てて鳥坂城から脱出。その時、先祖伝来の名刀を紛失してしまったそうです。
その後、小太郎資盛の行方は杳(よう)として知れず、ここに越後の名門・城一族は滅亡してしまったのでした。