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梶原景時の仇討ち!鎌倉時代「建仁の乱」で活躍した女武者「坂額御前」の武勇伝(下)

梶原景時の仇討ち!鎌倉時代「建仁の乱」で活躍した女武者「坂額御前」の武勇伝(下)

これまでのあらすじ

仇討ちに決起した女武者「坂額御前」の武勇伝!鎌倉時代の建仁の乱で活躍(上)

いきなりですが、もし恩人が殺されたら、あなたはどうしますか?訴えますか?泣き寝入りしますか?……それとも「仇(あだ/かたき)」を討ちますか?今回は鎌倉時代、越後国(現:新潟県)で「仇討…

仇討ちに決起した女武者「坂額御前」の武勇伝!鎌倉時代の建仁の乱で活躍(中)

前回のあらすじ[insert_post id=91112]鎌倉時代、頼朝公亡き後の政争によって「鎌倉一の郎党」梶原景時が暗殺されると、景時に恩義がある越後の御家人・城(じょう)一族がその仇…

頼朝公の死後、鎌倉幕府の功労者であった梶原景時(かじわらの かげとき)が失脚・暗殺され、景時に恩を受けていた越後の豪族・城長茂(じょうの ながもち)は仇討ちに挙兵するも、あえなく討死。

遺された妹・坂額御前(はんがくごぜん)は甥の小太郎資盛(こたろうすけもり)と共に国元の越後・鳥坂(とっさか)に城を構えて挙兵したのでした。

決死の覚悟で一矢報いん

越後の挙兵が鎌倉に報されたのは、建仁元1201年4月2日。近隣の地頭たちが寄ってたかって攻めかかるも、ことごとく撃退されてしまったようです。

「さて、どうしようか?」

紛糾する軍議(イメージ)。ああでもない、こうでもない……。

さっそく幕府では善後策が協議されましたが、公式史料『吾妻鏡』の記述を読む限り、あまり遠征に熱心ではなかったようです。

「越後のゴタゴタなんかで鎌倉の御家人を死なせたくないから、さっさと現場に始末させろよ」

【原文】……なんぞ一人といへども當參の壯士を失ふべけんや。早く在國の士に仰せらるべし……

※『吾妻鏡』建仁元1201年4月3日条

それじゃあ早速……と思ったら、現場にこれと言った人材が見当たりませんでした。

この時ちょうど越後の守護であった佐々木三郎兵衛尉盛綱(ささき さぶろうひょうえのじょうもりつな※1)は時の将軍・源頼家(みなもとの よりいえ)公のご機嫌を損ねて上州礒部郷(現:群馬県碓氷郡)に謹慎していたのですが、急ぎ盛綱を現場復帰させることにしました。

(※1)この時は出家して「西念」と号していますが、便宜上「盛綱」で統一します。

「越後の一大事とあらば、謹んで拜命致します!」

歌川国芳画・佐々木盛綱肖像(部分)文政年間

かくして復帰した盛綱は、名誉挽回の好機と越後・佐渡・信州(現:新潟県&長野県)から大軍勢を動員。4月8日には鳥坂へ到着したのでした。

「いつ、どこで戦いましょうか?(※当時の合戦は、予め軍使を交わし、お互いの日程調整をするのが作法でした)」

盛綱からの書状を受け取った小太郎資盛・坂額御前らは、圧倒的少数であったため「籠城」を選択。元より勝利は望めない以上、鳥坂の天険を恃みに「一矢報いん」と決したのでした。

2ページ目 決戦・鳥坂城!坂額御前の武勇

 

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