梶原景時の仇討ち!鎌倉時代「建仁の乱」で活躍した女武者「坂額御前」の武勇伝(下):3ページ目
鎌倉そして甲州へ
かくして囚われの身となった坂額御前は、どうにか歩けるようになってから鎌倉に護送されたのですが、6月28日に将軍・頼家公の前へ引き出されると、「越後の女傑を一目見よう」と御家人たちが押しかけて、市場のような騒ぎになったと言います。
幕府の重鎮たちに囲まれた中、坂額御前は頼家公の前へ進み出ると、微塵も怯まず、命乞いもしなかったそうです。
「此度兵を興せるは、大恩ある景時様の仇に報いんがため。たとえ兄・長茂ともども武運拙く敗れようと、何一つ恥じることはございませぬ!」
その堂々たる態度は敵ながら天晴れ、と多くの者を感心せしめたでしょうが、その中に甲斐国(現:山梨県)の住人・阿佐利與一義遠(あさりの よいちよしとお。浅利とも)という武士が、頼家公にお願いしました。
「越後の女傑ですが、あれをそれがしに下さらぬか。妻にしとう存じます」
それを聞いた頼家公は、訝しがって訊ねます。
「あれは天下の大罪人(無双の朝敵)ぞ。それを求めるとは、その方、謀叛でも企んでおるのか」
睨みつける頼家公に、與一は笑って答えます。
「いえいえ、あれだけの女傑ですから、男子(おのこ)をたくさん産ませ、幕府のお役に立つ豪傑に育てたいのです」
そう聞いて頼家公は苦笑します。
「あやつは美人じゃが、気性の荒きゆえ他に欲しがる者もおらんじゃろう……よし、くれてやるから連れてゆけ。それにしても物好きじゃのう」
【原文】「件の女(坂額御前)面貌よろしきに似たりといへども、心の武(たけ)きを思へば、誰か愛念あらんや。しかるに義遠が所存、すでに人間の好むところにあらざる由、しきりに嘲弄せしめたまふ……」
※『吾妻鏡』建仁元年6月29日条
かくして(本人の意思も聞かずに)坂額御前は阿佐利與一義遠に嫁ぎ、甲州へ移住。その後一男(後の浅利太郎知義)一女をもうけ、余生を送ったそうです。
終わりに
山梨県笛吹市にある「板額塚」は坂額御前の墓所と伝わっており、彼女が生まれたとされる新潟県胎内市飯角(※2)に鎮座する熊野若宮神社の境内には、その武勇を称えて「鳥坂城奮戦800年記念碑」が建立されました。
(※2)「飯角(はんがく)」と読み、この地名が呼び名の由来となったとも言われています。
かつて恩人の仇討ちに決起し、死力を尽くして闘い抜いた女傑のエピソードは、今なお多くの人に愛され続けています。
【完】