隠れキリシタン世界文化遺産に認定。日本のキリシタンと言えば「細川ガラシャ」時代に翻弄された明智光秀の娘:2ページ目
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その後の苦難と死
受洗後も、ガラシャには厳しい日々が続きました。ガラシャが洗礼を受けてキリシタンとなった事を知った忠興は、怒って妻に教えを捨てる事を迫りましたが、彼女は受け入れませんでした。
忠興は妻の信仰を黙認しますが、その後側室を持つなど、ガラシャにつらい仕打ちをするようになります。
彼女は離婚を望みましたが、宣教師から思いとどまるようにと説得されます。カトリックでは現在に至るまで、正当な理由のない離婚は認められていないのです。
慶長5(1600)年、忠興が会津の上杉景勝の征伐のために徳川家康に従い出陣した留守中、西軍の石田三成が細川家を兵に囲ませ、ガラシャを人質に取ろうとします。三成が諸大名を西軍の味方につけて家康に対抗するため、大名の妻子を人質に取り寝返らせる作戦に出たのでした。
忠興は出陣前「もし自分の留守中に危険が生じ、妻の名誉が損なわれる事態となった場合、全員切腹するように」と言い残していました。しかし、キリスト教を信仰しているガラシャには自ら命を絶つ事は許されません。
そこで彼女は、屋敷内の女性たちを全員外へ出した後に家老を呼び、彼に介錯させて命を絶ったのでした。
ガラシャのこの壮絶な決断は石田方に大きな衝撃を与え、「妻子を人質に取って西軍に寝返らせる」という作戦は失敗します。このことは、後の関ヶ原の戦いにも影響を与えたと言われます。
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