東北地方に独自の政権を構えたヒーロー「奥州藤原氏」ってどんな人たちなの?[後編]:2ページ目
源氏の争いに巻き込まれた悲劇の4代目・藤原泰衡
秀衡の死去と共に奥州藤原氏の当主になったのが、次男の泰衡です。本来ならば豊かな奥州を治める君主として就任するはずだった泰衡の治世は、当初から前途多難でした。秀衡は亡くなる前に、『義経殿を大将軍として国務を任せなさい』と遺しており、後継者になった泰衡はその遺言を守っていました。
しかし、鎌倉の頼朝の元からは義経を差し出せと矢の催促、泰衡と不仲であった異母兄の国衡が義経と親しい間柄で、泰衡には頭の痛い問題が山積みだったのです。
文治4年(1188年)、頼朝は朝廷に命令を出して貰い、泰衡と彼の外祖父である藤原基成(基成の娘が秀衡に嫁いでいた)に対し、義経追討を促します。度重なる頼朝からの圧力に泰衡は屈してしまい、翌文治5年(1189年)に衣川に住んでいた義経を攻撃しました。
観念した義経は正室と娘を道連れに自決、弁慶も戦死します。その事ですぐ下の異母弟・忠衡と泰衡の間に紛争が起こり、平泉政権は弱体化します。それを頼朝が見逃すはずはなく、許可なく義経を討った事を理由に、奥州への遠征を始めたのでした。
源平合戦で勝利した頼朝は28万4千騎もの大軍を率いて北上、17万騎の奥州軍はなす術もなく敗れ、兄国衡を始めとする一門の多くを失った泰衡は平泉に放火して北方へ逃げます。降伏を打診するも頼朝に拒絶されたため、蝦夷地(北海道)に退却しようとした矢先に裏切り者が出て、泰衡は25歳(もしくは35歳)の若さで殺されてしまったのです。
その首は釘で柱に打ち付けられて晒し物にされ、ここの奥州藤原氏の天下は滅亡します。先代の遺言を守れなかった上に“判官贔屓”の対象になった義経と人気者の弁慶を殺して奥州の破滅を招いた泰衡は『愚か者の悪人』として後世に伝えられました。しかし、地元民は彼を慕っていたらしく、晒された泰衡の首を“これは忠衡のものだ”と偽ってミイラにし、金色堂に納めました。
そうした人々の心を表していると思われるのが、泰衡の首と共に納められたものに100個余りの蓮の種です。蓮は極楽や仏様を象徴する花なので、臣下や民が泰衡の魂が天に召されるのを祈って供えたのかも知れませんね。
こうして奥州藤原氏は源氏による武士政権台頭と共に、日本史から姿を消しました。しかし、この蓮は平成12年(2000年)に開花し、中尊寺蓮として極楽浄土を模した中尊寺の境内にある池で栽培され、東北地方に極楽浄土のような理想郷を作ろうとした藤原四代の志を、今もなお伝え続けています。
画像:ウィキペディアより