勝者は家康か秀吉か?小牧・長久手の戦いの歴史上の位置づけを考察する【前編】:2ページ目
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攻めて、敗れて…
三河攻めのために進軍したのは、羽柴秀次・池田恒興・森長可の三人です。
しかし家康はこの動きを察して、反対に三河へ進軍中だった羽柴秀次の軍の背後から襲撃。白山林で打ち破ると、さらにその勢いで、長久手で池田・森の両軍と戦闘を繰り広げたのでした。これが長久手の戦いです。
この戦いでは家康が見事に勝利をおさめ、池田・森の両名が討ち取られた上に秀吉軍は2500名もの兵を失う結果になります。
ちなみに、伝説によると長可は眉間を鉄砲で打ち抜かれて死亡し、その戦死地には、官名にちなんだ「武蔵塚」と呼ばれる墓碑が立っています。
とはいえ、秀吉も完全な負け戦だったわけではありません。長久手の戦いとは別に、松ヶ島城や加賀野井城、竹鼻城など、徳川方の拠点である城を攻めています。
これに対しては、家康も四国の長曾我部元親や、紀伊国の雑賀衆や根来寺など、以前から秀吉と対立関係にあった勢力と手を結んで、秀吉の背後に迫ったのでした。
【後編】では、この小牧・長久手の戦いが膠着状態に陥ってから、決着がつくまでの流れを追っていきます。
参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年
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