1日で30人相手する日も…異国に売られていった日本人少女たち「からゆきさん」の売春の実態【後編】:2ページ目
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からゆきさんの生活の実態
当時日本では彼女たちの生活の実態はほとんど知られていなかったものの、からゆきさんを題材にしたルポ『サンダカン八番娼館』(1972年、山崎朋子)が映画化され、その実態が徐々に明らかになっていきました。
『サンダカン八番娼館』に描かれた大正中期から昭和前期のボルネオの例では、娼婦の取り分は50%、その内で借金返済分が25%、残りから着物・衣装などの雑費、更にはフィリピン政府の衛生局での週1回の淋病検査、月1回の梅毒検査の費用もあり、その雑費の2倍が娼婦負担にさせられていました。
「返す気になってせっせと働けば、そっでも毎月百円ぐらいずつは返せたよ」という元からゆきさんの言葉から、月約130人は相手していた計算になります。
特に大変だったのが港に船が入った時で、どこの娼館も満員になり一晩に30人の客を取ったからゆきさんもいたといいます。
客の1人あたりの時間は3分か5分、それよりかかるときは割り増し料金の規定でした。休みたくても休みはなく、とある元からゆきさんが当時を振り返って言った「月に一度は死にたくなる」という言葉に当時の過酷さが表れています。
やがて国際的に人身売買に対する批判が高まり、日本国内でも彼女達の存在は「国家の恥」として非難されるようになってしまいました。
1910年代および1920年代の間(明治43年~昭和4年)、海外の日本当局者は日本人売春宿を廃止し、からゆきさんの多くは日本に帰りましたが、更生策もなく残留した人もいました。
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