小者だからと侮るな!戦国時代、毛利家三代に仕えた歴戦の勇士・相嶋光久の武勲:2ページ目
歴戦の勇士として活躍する光久
光久の初陣は18歳となった天文22年(1553年)4月。備後国(広島県東部)の国人・江田隆連(えだ たかつら)の籠もる旗返山城を攻めた折、敵を討ち取る武勲を立てます。
この活躍によって天文23年(1554年)12月、光久は安芸国高田郡佐々部(広島県安芸高田市)に5段の給地を賜わりました。
段(きだ)とは田畑の面積を表す単位。町(約9917.36平米≒約1ヘクタール)の1/10なので、およそ0.5ヘクタールとなります。
晴れて自分の領地を持つことが出来た光久は、やがて妻(素性は不明。身分相応の女性と推測)を娶って男児(後の相嶋元光)を授かりました。
この時点で立派な武士ではないかと思うのですが、あくまで毛利家中における光久の扱いは小者。よほど人材層が厚く、これしきではまだまだだったのでしょう。
「ようし、これからもっと精進して、そなた(妻子)たちに楽をさせてやるのじゃ!」
「その意気でございますよ!」
ますます奉公に励んだためか、国司家中でも高く評価されたであろう光久。永禄10年(1567年)ごろに国司元相が隠居、嫡男の国司元武(もとたけ)が家督を継いだ後も引き続き仕えます。
永禄12年(1569年)には九州へ渡り、豊前三ケ岳城(福岡県北九州市)の攻略にも戦功を立てたため、安芸国佐伯郡吉和荒所(広島県廿日市市)に5貫目を与えられました。
ここで言う5貫目とは面積ではなく通貨の単位。貨幣価値に換算して5貫目になる量の米が穫れる土地……というより、現地の収穫量から5貫目分の米を分けてもらえる権利を得たものと考えられます。
続けて同年8月には備後神辺城(広島県福山市)に籠城した藤井皓玄(ふじい こうげん)を攻め、鉄砲で敵数名を射殺する武勲を重ねました。
3ページ目 命懸けの武功により、息子が毛利家に取り立てられる