小者だからと侮るな!戦国時代、毛利家三代に仕えた歴戦の勇士・相嶋光久の武勲
時は戦国、乱世の風雲吹き荒れる天下に志を立て、多くの男たちが立身出世に駆けずり回りました。
しかし「主役ばかりじゃ芝居にならぬ」と言うように、誰もが一国一城の主になれた訳ではなく、むしろ名前も知られず死んでいく方が多かったのが現実。
そんな中、身分は低くても自らの実力で武勲を勝ち取る者も少なからずいました。
今回は安芸国(広島県西部)の戦国大名・毛利家三代(毛利元就・毛利隆元・毛利輝元)に仕えた小者・相嶋光久(あいじま みつひさ)の武勇伝を紹介したいと思います。
毛利氏の家臣・国司元相に仕官する
相嶋光久は天文6年(1536年)に誕生しました。両親の名前や素性は不明、少なくとも身分は高くなかったのでしょう。
通称は五郎次郎(ごろうじろう)、後に孫左衛門(まござゑもん)と改名。最初の五郎次郎は「五郎の息子の次郎(次男or2番目の子)」を意味することが多いため、光久には兄か姉がいたかも知れません。
(あるいは代々受け継がれた屋号だった可能性もあります)
また、孫左衛門と改名しているため、武功等によって主君から左衛門(尉-じょうor志-さかん)の名乗りを許されたのでしょう(孫の字の由来についても興味深いところです)。
元服した五郎次郎は光久と諱を定め、毛利家臣の国司元相(くにし もとすけ)に小者として仕えました。
小者(こもの)とは武家に奉公していても武士の身分ではなく、下男や人夫に近い立場です。
それでもいつか武士になれることを夢見ていたのか、あるいは飯さえ食えれば何でもよかったのかはともかく、日夜奉公に励むのでした。