無念の最期…戦国時代、無双の学者とまで呼ばれた悲劇の天才知将・太田道灌:2ページ目
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悲劇の暗殺、無念の最期
このように、学問や戦術など様々な分野での才能を持ち合わせていた太田道灌。彼の名はたちまち世に知れ渡ります。
道灌が家臣として仕えていた扇谷上杉家の勢力はますます増えていきました。
しかし、戦国時代は家同士の争いも多い時代でした。山内上杉家は、扇谷上杉家が栄えるのをよしとせず、太田道灌を失脚させようと企みます。
そこで山内上杉顕定は、道灌と主君を仲違いさせることにしました。
実は、道灌の主君である扇谷上杉定正は、周囲からの信頼の厚い道灌のことを目障りに感じていたのです。
その心情を上杉顕定は見逃しませんでした。偽りの噂を流し、それを上杉定正は信じてしまいます。
文明18年7月26日(1486年8月25日)、主君である上杉定正に招かれた道灌は、すすめられるままに湯浴びをします。
その入浴中に、定正から命令を受けた曽我兵庫から切りつけられ、彼は絶命しました。
いくら名将といわれた太田道灌でも、湯浴み中の丸腰状態では、抵抗もできません。
これほど頭のいい道灌が、なぜ自分に身の危険が迫っていることには気付かなかったのでしょう?
実は、太田道灌という人は敵に対しての警戒心はありましたが、身内(主君)に対しては無防備だったのです。自分の主君は絶対に味方だと思っていました。
しかし彼は、そんな信用していた主君からの裏切りに遭い、無念の最期を遂げたのです。
参考資料
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