てんりゃく?てんれき?どっちも同じ天暦だけど…日本以外でも使われていた元号のトリビア:2ページ目
天暦(てんれき)
さて、天暦と書いて「てんれき」と読むのはモンゴル帝国・元王朝の元号(モンゴル語ではTen-liと発音)。西暦1328~1330年、日本だと鎌倉時代の末期ですね。
トク・テムル(図帖睦爾)が第7代皇帝アリギバ(阿里吉八。モンゴル帝国第11代カアン)に対抗して即位した時に改元。兄のコシラ(和世㻋)と2代にわたって用いました。
後世「天暦の内乱」と呼ばれるカアン位継承争いを制したトク・テムルは兄のコシラに帝位を譲ったものの、その直後にコシラが変死(暗殺説も)。
カアンに復帰したトク・テムルは天暦3年(1330年)5月8日、元号を至順(しじゅん)と改めたのでした。
天暦元年(1328年)
9月13日 トク・テムルが第12代カアン位(並びに第8代元皇帝)に即位
10月13日 トク・テムルがアリギバ(9歳?)を滅ぼす(混乱の中で死去。処刑か)天暦2年(1329年)
4月 トク・テムルが兄のコシラに皇位を譲り、自身は皇太子に
8月2日 トク・テムルとコシラが会見
8月6日 コシラが急死(暗殺?)
8月15日 トク・テムルが復位するが、親衛隊長エル・テムル(燕鉄木児)の傀儡に天暦3年(1330年)
5月8日 至順に改元
日本だと一世一元(いっせいいちげん。天皇陛下一代ごとに元号を一つのみとする制度)が定着した現代はもちろん、御代替わりに際して改元するのが当たり前の感覚ですよね。
しかしモンゴル帝国ではちょっと感覚が違ったらしく、同じ元号を皇帝2人で使っているなど、元号と帝位・治世のつながりが若干弱かったのでしょう。
ちなみに次の至順も、トク・テムルと次代のイリンジバル(懿璘質班。コシラの子)で兼用されました。
終わりに
他にも元号ではありませんが、19世紀の宗教叛乱である太平天国(たいへいてんごく。1851~1864年)で用いられた太陽暦も天暦(てんれき)と呼ばれます。
これは1年を12ヶ月366日(奇数の月を31日、偶数の月を30日)として閏月を廃止、西暦にならって曜日の概念を導入したものです。
二十四節気を基準として節気を月初、中気を月半ばとしました。
【節気】大雪、小寒、立春、啓蟄、清明、立夏、芒種、小暑、立秋、白露、寒露、立冬
【中気】冬至、大寒、雨水、春分、穀雨、小満、夏至、大暑、処暑、秋分、霜降、小雪
ただしこのまま1年366日固定だと1年間で18時間ほどずれてしまうため、後に太平新暦が作られ、これは40年に一度毎月28日(336日)になる年を設定します。
……が、その年が来る前に太平天国は滅亡してしまったのでした。
以上「天暦」について紹介して来ましたが、日本と大陸でその治世は大きく異なります。
栄枯盛衰は世の習い。王朝の興亡を繰り返す世界にあって、初代・神武天皇(じんむてんのう)以来ずっと変わらぬ日本の皇室を、末永く大切にしていきたいですね。
※参考文献: