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遷都、遷都でやっとたどり着いた「平安京」…引っ越しの理由は?千年も続いたのはなぜ?

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でも長岡京もダメ!怨霊にはかなわない

 

さて、長岡京に遷都したものの大事件が発生します。遷都の責任者だった藤原種継が785(延暦4)年に矢で射られて暗殺されたのです。事件の関係者として、奈良仏教と関わりがあったとされる貴族や皇族が何人も処罰されました。

そして処罰された人の中には、桓武天皇の弟である早良(さわら)親王も含まれていました。彼はかつて東大寺の僧侶だった経歴があり、奈良仏教関係者として疑われたのです。しかし彼は無実を訴え、島流しにされながらもハンストを試みて亡くなりました。

ここからケチがつき、桓武天皇の周囲で不幸は連鎖していきます。早良親王の死後、桓武天皇の后や生母、さらに皇太子の安殿親王(あてのみこ)が次々に病に倒れて亡くなる人も出ます。さらに飢饉に疫病に洪水など、これでもかと言わんばかりに都に災厄が降りかかりました。

「怨霊の祟りだ」――。現代では想像もつかないほど、“怨霊”の存在が真剣に考えられていた時代です。桓武天皇は亡き早良親王に祟道天皇という天皇号をおくったり、鎮魂の儀式を行ったりしましたが効果はありませんでした。

そこで、天皇に訴えたのは、長岡京の治水工事を担当していた和気清麻呂です。彼は「長岡京の洪水は、治水工事くらいでは止められません。引っ越しましょう」と述べました。まだ引っ越して10年しか経っていない長岡京でしたが、桓武天皇は彼の忠告に従い、次なる都へ遷都することに決めます。

 

ちなみに現代の視点で見ると、長岡京は洪水が起きても全く不思議ではない場所でした。もともと川に囲まれている上に、そのうちの一つである小畑川は、近代に入るまで頻繁に洪水を起こしています。怨霊や祟り以前に、長岡京は場所も悪かったのでしょう。

3ページ目 こんにちは平安京!水利も確保しひと安心

こんにちは平安京!水利も確保しひと安心

こうして、皆さんご存じ「平安京」への遷都が行われました。この都市は当時世界最大の都市だった唐の長安を模したもので、道路が碁盤の目のようになっている「条坊制」が採用されたのでした。また、土地の選定には、中国伝来の陰陽道が用いられたという説があります。

平安京は、明治維新後に首都が東京へ移されるまで、約千年間にわたり日本の都として機能します。もっとも首都として「繁栄」し続けたかというとそうでもなく、貴族文化が終焉する頃には政治不安によって荒廃し、朝廷には既に遷都する体力も残っていなかったとする見方もありますが。

しかし少なくとも、平安京にはそれまでの平城京や長岡京と一線を画す優れた点がありました。海に通じる大きな河川の存在です。平安京の近くには淀川水系があり、どの河川を辿っても海がすぐそこにあるという地形だったのです。

 

となれば、船で全国からの物資を運ぶことができます。平安京は水路の要衝となり、商業や工業が盛んになりました。藤原京と平城京にはこうした河川はなく、物資の運搬は全て陸路に頼っていたのです。また、水を引けないため下水が整っておらず町は不衛生でした。

その点、長岡京は近くに大きな河川が三つもあり物資の運搬には事欠かなかったようです。まだ豊富な水のおかげで下水問題も解決できたのですが、逆にそれらの河川が原因で洪水になってしまったのです。

平安京が栄えて長く続いた大きな理由は、多くの人や物資が出入りすることで「商業都市」「工業都市」として発展したからです。その前の藤原京と平城京は水路がないため、せいぜい「政治都市」どまりでした。長岡京もいいところまで行ったのですが、災害に弱いという欠点がありました。

古代日本の遷都と言えば、なんとなく「大昔の人が迷信に惑わされ、怨霊や祟りから逃れるために引っ越しを繰り返した」というイメージがあります。しかしそれは古代の日本人がそのように“説明づけた”だけの話で、遷都の根本的な理由は、政治的な思惑や自然災害、インフラの問題にあったことが分かりますね。

参考資料

 

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