鼻のことは聞いちゃダメ!天下一気が短い?戦国武将・細川忠興の短気さを物語るエピソード:2ページ目
気に入らないことがあれば身内でも容赦なし【息子たち編】
忠興の短気さは父にだけではなく、息子たちにも向けられました。それは慶長5年(1600)、忠興の妻ガラシャが西軍の人質になることを拒み自決した時のこと。
ガラシャの側には忠興の嫡男忠隆の妻で前田利家の娘千世(ちよ)がいましたが、脱出に成功し前田家屋敷に逃れていました。
忠興は徳川家康が細川家と前田家の婚姻関係を良く思っていないことを知っていたので、今回のことを理由に離縁するよう忠隆に命じます。
しかし、離縁に納得せず忠隆は千世を庇うような行動を取りました。そのことが、つい最近ガラシャを失った忠興の怒りを助長させてしまい親子関係がこじれ、慶長9年(1604)には廃嫡されてしまいました。
また、忠興は次男興秋(おきあき)にも容赦のないことを行います。
忠隆が廃嫡となり、興秋が嫡男となるのかと思いきや、徳川家の人質だった三男忠利(ただとし)が徳川秀忠の信頼を得ていたことで、忠利が家督を継ぐことになりました。
これに不満だった興秋は慶長10年(1605)に細川家を後にし、その後の大坂の陣では豊臣方として戦います。
そして敗北後、家康は助命してきた興秋を許そうとしていましたが、忠興は許すことはせず、諦めた興秋は自害しました。
自分の判断に従わない者は例え息子たちでも容赦のない決定を下したり、当時大御所だった家康の判断を覆した忠興には鬼気迫るものがあったと感じてしまいます。
愛刀の由来は三十六歌仙から
忠興の愛刀は歌仙兼定(かせんかねさだ)でその名に恥じない由来がありました。
それは忠興も和歌に精通しており、それにあやかった訳ではなく、忠興が不忠であることを理由に手打ちにした忠利の側近たちが関係していました。
その数はなんと36人!そこから三十六歌仙を引っ張り出し、愛刀の名前としました。
最後に
身内にも容赦がなく短気な忠興ですが、晩年になるとこれまでとは打って変わって丸くなりました。
寛永19年(1642)には廃嫡によって絶縁状態だった忠隆と和解しています。また、忠利の体調を気遣ったりと子を想う親になったので、戦国の荒波の中で自然と角が取れてきたのだと感じます。