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モンゴルに自由と統一を!日本人と共に民族独立を目指した悲劇の英雄・バボージャブの戦い【三】

モンゴルに自由と統一を!日本人と共に民族独立を目指した悲劇の英雄・バボージャブの戦い【三】:3ページ目

日露戦争の勝利、満洲義軍は解散へ

……しかし、日本側の補給線は伸び切って肝心の物資は底を尽いており、これ以上の攻勢は不可能と判断した陸軍は奉天(現:遼寧省瀋陽)に留まってその防衛に努めました。

「後は、インド洋からやって来るバルチック艦隊を叩ければ勝てる……!」

日本海軍(連合艦隊司令長官・東郷平八郎ら)がその期待に応え、明治三十八1905年5月26日~27日にかけて対馬沖(いわゆる日本海海戦)で赫々たる戦果を上げた事績は、後世よく知られる通りです。

やがてアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトが日露講和を促し、戦闘には勝利したものの、もはやボロボロになっていた日本と、まだまだ十分な継戦能力を温存していながら国内で起こった第一次ロシア革命への対応に追われるロシアの利害が一致。

かくして10月14日、日露両国がポーツマス条約(日露講和条約)を締結し、ここに日露戦争は終結したのでした。

「やった……俺たちの、黄色人種の勝利だ!」

「大日本帝国万歳!満洲万歳!モンゴル万歳!」

奉天で講和条約の締結を知ったバボージャブたちは、歓喜に沸き立ったことでしょう。

「これでロシアの支配下にあった満洲が解放される!この勢いで、清国の支配下にある南モンゴルも解放しよう!」

……しかし、講和の内容は南樺太(からふと)の割譲と朝鮮半島の権益承認、大連・旅順そして東清鉄道(旅順~長春間)の租借権を得たものの、賠償金は得られませんでした。

「あれだけの武勲を立てたのに、日本が朝鮮半島と満洲の一部にちょっと足がかりを作っただけなのか……」

かと言って、条件に不満だからと日本に戦争を継続する余力は残っておらず、渋々呑むよりありません……ない袖は振れぬ、となれば満足な恩賞もないまま、満洲義軍は解散を命じられました。

「皆さんの協力なくして、今回の勝利はあり得なかった。にもかかわらず、満足に報いることも出来ず申し訳ない……」

満洲義軍を率いてきた花大人は、バボージャブたちに自分で工面した僅かな報酬を配りながら、詫びるよりありません。

「いやぁ、花大人が悪い事ぁありませんや。また国力を蓄えて、次こそは満洲を、そしてモンゴルを解放しましょうや」

「そうでさぁ。花大人が一声かけてくれりゃあ、俺たち又いつでも集まりやすぜ……」

かくして、再び民族独立の旗下に結集できる日を願いながら満洲義軍は解散。バボージャブは家路を辿るのでした。

【続く】

※参考文献:
楊海英『チベットに舞う日本刀 モンゴル騎兵の現代史』文藝春秋、2014年11月
波多野勝『満蒙独立運動』PHP研究所、2001年2月
渡辺竜策『馬賊-日中戦争史の側面』中央公論新社、1964年4月

 

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