君が代の「さざれ石」もある北鎌倉・東慶寺は、かつて男子禁制の縁切り寺だった
有名な「縁切寺」
北鎌倉駅から徒歩4分の場所に位置する東慶寺は、1285(弘安8)年に北条時宗の正室・覚山尼によって開山された、臨済宗円覚寺派のお寺です。
1871(明治4)年に縁切寺が廃止となり、1905(明治38)年に建長寺・円覚寺両派の管長が入寺するまで、このお寺はずっと徹底した男子禁制の尼寺でした。
女性の側から離婚を言い出すことのできなかった時代に、ここへ駆け込んで一定期間修業をすれば離婚ができる「縁切寺」「駆け込み寺」だったことでも知られています。
開山の覚山尼はこれ以外にも、夫の暴力などに苦しむ女性を救う為の政策も行ったと伝えられています。
お寺で「縁切り」はどうすればできたの?
さて、お寺に駆け込んだ女性が夫との離婚を成立させるまでには、いくつかのステップがありました。
妻が夫との離婚を望んで駆け込むと、お寺は妻を保護した上で、まず夫に「内済離縁」を勧めました。これは現在でいうところの「離婚調停」です。縁切寺は、現在の家庭裁判所の役割を行うことが公的に認められていたのです。
調停の際には、妻側の縁者を呼んで復縁するように諭させたり、夫などを強制的に呼び出して事情聴取を行う事もあったと言います。多くの場合、この調停の段階でうまく話がまとまり、無事に離婚が成立して妻は親元に帰って行きました。
しかしこれがうまくいかなかった場合、最終手段として妻はお寺で足掛け3年(満2年)の修業に入りました。この期間が経つと、寺法によって離婚が成立したのです。
「お寺に入る」とは言っても、完全に髪を剃って尼僧になったわけではありません。
髪を少し切るという形式だけを踏襲し、その後は離婚成立までお寺の仕事をすることとなっていました。
江戸時代は妻側から離婚できなかった…ならば寺に駆け込むしかない!「駆け込み寺」の仕組み
江戸時代の女性には離婚権がありませんでした。そのため、妻が離婚したいと思っても非常に難しい時代だったのです。武家時代の封建制度では、男尊女卑の風習が濃かったのでしょう。しかし、そんな妻たちを助…
ページ: 1 2