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悲しすぎる…ハリスを世話した幕末の下田芸者「唐人お吉」の波乱万丈な人生:後編

悲しすぎる…ハリスを世話した幕末の下田芸者「唐人お吉」の波乱万丈な人生:後編:2ページ目

時は流れ、御一新後の明治元年。ただ1人、姿を消してしまったきちを探し続けていた人物がいました。その人こそかつての想い人、鶴松あらため又五郎。想いは通じ、彼はついにきちを横浜で見つけ出します。その時又五郎32歳、きちは28歳になっていました。2人は結婚し、しばらく横浜で暮らしたのち、互いの故郷である下田の大工町に家を持ちます。きちは夢だった新造らしい丸髷を結い、人生の中で最もきらめく時を過ごします。

しかし、神様は意地悪です。これでハッピーエンドかと思いきや、きちの酒乱が再発し、明治7年に2人は別れてしまうのです。直後、又五郎は謎の死を遂げます。

それからのきちは、自分の事を「生きた屍」と言うようになり、芸者、髪結い屋を経て、安直楼という小料理屋を開業するも上手くいかずに閉店。やはり心のどこかでは又五郎の事を忘れられずにいたのでしょう。

安直楼 (Wikipediaより)

きち47歳の時、長年の飲酒が高じてか脳卒中で倒れ、体がいうことをきかなくなります。借金も返せず、乞食のような風体になったきちは、明治23年、稲生沢川に身投げします。時にお吉50歳。

彼女の遺書には、こうしたためられていました。

「あわれな女と思し召し、私の亡き後の香華の手向けをご無心申し上げます。さらばお達者に過ごされませ。おさらば 乞食婆より」

思いがけないかたちで幕末の波に呑みこまれた佳人は、波路の間の浮き藻の花と消えたのでした。

この話を聞くたびに、幕末で犠牲になったのは有名な志士だけではなく、きちをはじめとする名もなき庶民の人々でもあったということを、私たちは忘れてはいけないと思うのです。

参考文献: 村松春水「実話 唐人お吉」国会図書館蔵
アイキャッチ写真: wikipediaより(着色加工:筆者)

 

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