藤原実資の女児が死亡…遺体はどこへ!?なぜ平安貴族の幼児の葬儀は”薄葬”だったのか?【光る君へ】:3ページ目
再び女児を授かるが……。
しかしいつまでも悲しんではいられません。実資は次なる娘を授かるよう、さっそく行動を起こしました。
8月に入ると延暦寺や長谷寺へ僧侶を派遣して祈祷させ、9月には自ら女児誕生祈願の物詣に出立します。
石清水八幡宮・石山寺・大安寺・元興寺(がんごうじ)・春日社・長谷寺・清水寺を歴訪。凄まじい執念でした。
その甲斐あってか、正暦4年(993年)2月、ついに念願の女児が生まれたのです。
が、その女児も間もなく世を去ってしまいました。
実資は陰陽師の助言に従い、今度は遺体を上品蓮台寺(北山の紫野)の南に安置させます。
その後しばらく女児は生まれず、やがて藤原千古(ちふる)が生まれたのは寛弘8年(1011年)ごろ。
この時点で実資は55歳。歳をとってからの子は特に可愛いと言うように、実資は千古を「かぐや姫」と呼んで溺愛しました。
結局入内は叶いませんでしたが、幸せそうで何よりですね。
終わりに
今回は藤原実資の女児が亡くなったエピソードから、平安時代の子供に対する葬儀を紹介してきました。
やんごとなき公卿(上級貴族)でさえこの薄葬ですから、庶民の子供が亡くなった時はゴミのように扱われたことでしょう。
実際「汚穢(おわい。汚くケガれたもの)」として処理された記録もあります。
※疫病などが蔓延すれば、一家全滅してしまうことも珍しくなかったので……。
もし生まれ変わりがあるとするなら、来世ではきっと幸せに成長して欲しいものです。
※参考文献:
- 倉本一宏『平安京の下級官人』講談社現代新書、2022年1月