「横浜中華街」は幕末に誕生した!関帝廟4代の歴史と御祭神・関羽の生涯をたどる:3ページ目
御祭神・関羽の生涯
関帝廟の御祭神となっている関羽は生年不詳。ただし横浜関帝廟の公式見解では後漢王朝の延熹3年(160年)生まれとなっています。
その出自は定かでないものの、生まれは河東郡解県。現代の山東省運城市塩湖区解州鎮常平村にあたる地域の出身です。
若い頃から義侠心にあふれ、腐敗した役人を殺して故郷を飛び出したとか。様々な伝承が残っているため、はっきりしたことは分かりません。
中平元年(184年)に黄巾党の乱が勃発すると、義勇軍として旗上げした劉備(りゅう び。字は玄徳)と張飛(ちょう ひ。字は益徳)の三人で義兄弟の契りを結び、義長兄の劉備に終生の忠義を貫きました。
トレードマークは真っ赤な顔に立派なヒゲ。特に鬚(あごひげ)と髯(ほおひげ)をたくわえていた事から、人々は関羽を美髯公(びぜんこう)と呼び讃えます。
また武勇にもすぐれ、冷艶鋸(れいえんきょ)と名づけた青龍偃月刀(大薙刀の一種)を奮って多くの敵将を屠り去ったとか(ただし武器については後世の創作との説も)。
養子の関平(かん ぺい)や忠臣の周倉(しゅう そう。周蒼とも)らと共に数々の武勲を立て、劉備の天下獲りに貢献した関羽。
現代の関帝廟でも、堂々と鎮座する関聖帝君の両脇に色白な関平、そして色黒な周倉が控えています。
しかし敵の謀略に陥って建安23年(219年)に非業の死を遂げてしまったのです。人々はその遺徳を讃え、あるいは怨霊を鎮めるために神として祀ったのでした。
終わりに
以上、横浜関帝廟の歴史と御祭神・関羽の生涯をたどってきました。
ちなみに商売の神様として祀られるだけあって、算盤(そろばん)や大福帳(だいふくちょう。現代の単式簿記)の発明者とも言われているそうです。
信義誠実を旨として生涯をまっとうし、弱い者の味方であった関羽は、世界中の人々から尊敬を集めています。
遠く海を隔て、また千数百年の歳月を隔てていても、英雄をリスペクトする人々の気持ちは変わることがありません。
もし横浜中華街を訪れることがありましたら、ぜひ関帝様にも詣でて頂けたら嬉しいです。
※参考: