”備中聖人”とも呼ばれ今なお人々に愛される岡山が産んだ偉人「山田方谷」とは?:2ページ目
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方谷が行った松山藩の藩政改革は?
学者として藩に尽くしていた方谷ですが、彼が45歳のときに、備中松山藩主の座に板倉勝静(いたくらかつきよ)が就くことになります。しかし、当時藩の財政は破綻寸前で、多くの借金を抱えていました。板倉は、この状況を変えようと、方谷を頼ります。
方谷は、「理財論」と「擬対策」の実践をすることで、大胆な藩政改革を成功させます。「理財論」は方谷の経済論で、中国・漢の時代の董仲舒の言葉である「義を明らかにして利を計らず」という考え方。
つまり、目先の利益を追うのではなく、綱紀を整え、政令を明らかにする義と利の分別をつけていけば、道は開け飢餓する者はいなくなることを説いたものです。
「擬対策」は方谷の政治論で、賄賂が公然と行われることが、財政を圧迫する要因になっているので改めることを説いたものです。
この2つの論をもとに様々な改革を行い、見事藩の財政を立て直すことに成功します。
地位や名誉よりも自分の信念を貫いた方谷
大政奉還後、方谷は新政府から要職への出仕の話も持ちかけられます。しかし、方谷は後進の育成に尽力。一民間教育者として、次世代に彼の思想・手法を伝えていきました。
数々の功績を残したことから「備中聖人」とも呼ばれ、今なお地元の人々に愛されています。
いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。
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